阪神・藤川俊介の引退と「広陵高校黄金時代」

2021年9月16日(木)

阪神の藤川俊介選手が現役引退を発表。

カープファンにはあまり馴染みのない選手かもしれませんが、私には結構印象深い選手でした。

まだ34歳。広島の広陵高校出身。生まれは福岡。

広陵高校は2003年春のセンバツで12年ぶりの全国制覇。当時新1年生(中学3年)だった藤川君はアルプススタンドでこれを見ていました。


 

広陵時代の幕が空く

昭和最後の夏、広島商業が夏の甲子園で全国優勝。

しかし時代は確実に「パワー野球」に変わりつつありました。PL学園、天理高校、帝京高校、仙台育英など強打のチームが活躍する時代に突入。

広商は昭和63年の決勝戦を1対0で勝ちましたが、実は昭和57年の決勝戦で池田に12点取られたり、昭和62年のPLには8点取られて負けていました。

昭和50年代の広島伝統の送りバントとしゃもじの応援。

昭和60年代に入ると金属バットのカッキーン!という音響と、朝日放送・植草アナウンサーの絶叫が甲子園に鳴り響くようになりました。私にとってこれらは「強打の時代」が始まる鐘の音でした。

 

平成元年。世はバブルでイケイケドンドン。小田和正もフォークをやめてポップに走る。中島みゆきもちょっと怪しくなってきた。

 

そんな時代に古豪復活。

平成3年春のセンバツで広陵高校は65年ぶりの全国優勝を果たします。

んで、この頃から広島県史上初めての野球留学生を受け入れ始める。←未確認

それまでの広陵高校は広島の出身者がほとんどでしたが、全国優勝以後、少しずつ他県の選手が入部するようになります。

 

大阪出身の白濱裕太、小林誠司、中田廉(当時野林)、福田周平。

福岡出身の佐竹健太、吉川光夫、そして藤川俊介。

ここに広島出身の西村健太朗、野村祐輔、上本兄弟、土生翔平、有原航平らが加わります。

 

平成15年春に西村、白浜で全国制覇。決勝戦は横浜高校を相手に15点取りました。

平成19年夏はノムスケ、小林が佐賀北高校に満塁HRを浴びて準優勝。

平成29年夏は中村奨成が清原を超える一大会6HR。準優勝。甲子園は奨成のためにあるのだ。

 

藤川俊介、阪神入団

さてそんな藤川君はスーパースターに挟まれた世代でした。

2個上が西村白浜。全国制覇。

1個上が上本博樹。甲子園4度出場。10打席連続出塁。

1個下が吉川光夫。後のMVPとベストナイン。

2個下がノムスケ、小林と土生スコアラー。

 

俊介は高校卒業後、近畿大学へと進学。二岡智宏ルートじゃないか。メラメラ・・・

実は私も近大藤川のことはよく知っていました。身体能力の高い俊足の外野手。

ただ当時のカープには松山竜平や丸佳浩などの若手外野手(笑)がいて、俊介へのニーズは低かったのですよ。

結局カープは甲子園の優勝投手、今村猛と堂林翔太を揃って上位指名。この年、外野手の指名はありませんでした。

 

阪神入団後の藤川俊介

2009年10月29日、「3位以下なら社会人」を表明していた近大・藤川を阪神がドラフト5位で強行指名。

アセる俊介。1ヶ月で悩んで5kgやせて阪神入団。一人入団会見でした。

2009年12月2日、阪神不動のセンター赤星憲広が電撃的に引退発表。まだ32歳でした。

2009年12月6日、阪神はボストンの1番打者マット=マートンの獲得を発表。

10月のドラフト会議で阪神が急遽、藤川俊介を下位指名した理由は赤星引退に備えるためだったのでしょう。

 

阪神入団直後は代走や守備固めが多かったですが、徐々にスタメンのチャンスを掴みます。

センター俊介、ライトマートンという時期もありました。

俊介が打てないスキに出てきたのが同世代の前田大和(現DeNA)

その後はFAで福留孝介が入団。糸井嘉男も入団。

FAのおっさん二人はたいしたことありませんでしたが、俊介にとどめを刺したのは2018年のドラフト1位近本光司でしたかね。

2年連続盗塁王。3年連続も視界良好。

そんな中、34歳の俊介は現役引退を発表しました。2021シーズンで現役引退を発表したのは藤川俊介が一番乗りでした。←松坂大輔

 

どうでもいい話ですが、このブログで私がいつも「前田大和」「藤川俊介」と表記する理由は、彼らをアマチュア時代から注目して応援していたからです。

「樟南の前田君ええわー」

「近大の藤川君ええわー」

でずっとやって来たので、プロに入った途端「ヤマトです」「シュンスケです」と言われても違和感があるのですよ。

 

藤川俊介、伝説の珍プレー

さて最後に藤川俊介といえばコレ。

2011年4月15日の中日戦で、藤川は代走に出て盗塁失敗。スリーアウトチェンジ。

このアウトが鉄人・金本知憲の連続試合出場をストップさせる結果となりました。

打席には代打の金本が立っていました。スリーアウト後に真弓監督は金本を守備につかせず、そのまま交代させました。これによって金本の打席は成立せず。連続試合出場は1766試合で途切れることが確定しました。

 

当時はちょっと話題になりましたが、10年後の今となってはどうです?

金本の個人記録なんて大したことじゃないし、それよりもチームの勝利のために次の塁を狙った藤川俊介の方が正しいんじゃない?

実際、あの時真弓監督は金本の個人記録に固執しなかったし、金本本人もサバサバしていました。俊介は金本の記録のことが頭になかったため、金本に土下座して謝ってましたけどね。笑

真弓と金本、阪神ファンは割とサバサバしてましたよ。当時はむしろ「金本の連続記録を止めた方がチームのためになる」って雰囲気でしたよ。

私は無関係のカープファンですが、俊介の盗塁アウトを聞いて「むしろ良かったね」と思ったものですよ。

言うまでもなく金本知憲は広陵高校の出身。俊介の大先輩です。

金本はその後、阪神の監督に就任。ずいぶん俊介も可愛がったらしいです。良かったじゃん俊介。次の仕事も応援するぜ。

ちゃんちゃん。


おしまい
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ありがとうございました。

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