瀬戸輝信(せとてるのぶ)
1969年3月生まれ。捕手。右投げ右打ち。
1990年ドラフト1位でカープ入団。法政大学。背番号2→28
プロ生活14年。慶彦の次の背番号2。
このブログでは選手の背番号を現役最終年の番号ではなく、その選手が最も輝いていた時の背番号で記載しております。
清川栄治は19ではなく48で、高木宣宏は11でなく12。
そして瀬戸輝信は28でなく2なのであります。
もくじ
■高橋慶彦の次に背番号2を背負った男
■西山瀬戸時代
■ヘンな人らしい
■パスボール
■ほくろの話と引退間際
実はこの選手名鑑に瀬戸を載せるかどうか結構迷ったんですよ。
だって地味だから。笑
実は背番号00のところで中東直己を飛ばしております。
だって「いちご大福」ぐらいしかネタが思いつかない。笑
瀬戸も飛ばそうかと思ったんですが
「慶彦の背番号2を引き継いだ」
という1点で掲載を決めました。
1989年オフに高橋慶彦がロッテに移籍。
1990年11月に瀬戸がドラ1位指名を受け入団。
1年の空白を経て栄光の背番号2は瀬戸の背中へ。
慶彦ファンの私でしたが瀬戸を指名すると決まった時から
「ああ2番は瀬戸なんだろうな」
と予想していました。あまりセンチメンタルな感情もありませんでした。
もう野村謙二郎が盗塁王だったのでね。
瀬戸は法政大学出身で大学全日本。
全日本では瀬戸の控えが矢野燿大でした。
強肩強打の大学ナンバーワン捕手として鳴らしており、しかも山本浩二監督の後輩です。
慶彦に負けない選手になれ!と期待していました。
■西山瀬戸時代
瀬戸のプロ1年目は1991年。
当時の正捕手達川光男は35歳。
2番手捕手、植田幸弘は26歳。
ライバルの西山秀二は24歳でした。
大卒ルーキーの瀬戸は22歳。
ポスト達川は誰か!?
91年は達川が120試合マスクを被りました。
西山が20試合、植田が15試合。瀬戸は6試合。
2年目の1992年も瀬戸は5試合。
まだ2年目ですから仕方ないんですが、不運だったのはこの2年で西山秀二が一気に成長したこと。
1992年オフに達川が引退。
泣きながら折れたバット持って走りました。
1993年の開幕捕手は西山。植田をも抜き去りカープの正妻に収まります。
瀬戸も3年目は25試合、4年目は32試合でマスクを被りました。
2歳年上の西山に比べるとまだまだ頼りないところはありましたが、背番号2は着々と出場機会を増やして行きました。
■ヘンな人らしい
1995年2月1日。沖縄キャンプ初日。
なんと瀬戸は突然引退宣言をします。
「プロでやっていく自信がなくなりました」
これは当時のプロ野球ニュースでちょっと話題になりました。
カープファンはみんな
「えっ・・・今?」
そっちの方に驚きました。
今かよ!? キャンプ初日ですよ。
んで翌日には引退を撤回。
95年の瀬戸は自己最高の78試合でマスクを被り、プロ初HRも放つ。
オフには阪神の新庄剛志(24歳)も引退騒動。
新庄は瀬戸に憧れていたと思われる。←ウソ
96年から背番号を28に変更。
98年は120試合に出場。打撃も力強くなり時々ですが代打で出たり7番を打ったりもしていました。
■パスボール
瀬戸と言えばパスボール。
フォークボールはもちろんのことストライクゾーンのストライクでもパスボールしていました。
達川光男は1320試合で捕逸52個
石原慶幸は1506試合で捕逸50個
水沼四郎は1260試合で捕逸28個
未確認ですがカープ史上最多と予想されます。
瀬戸輝信と言えば顔にあった「ほくろ」がチャームポイントでした。
そんな瀬戸が突然ほくろを取ったのです。
レーザー手術の技術が発達したためか、千昌夫に憧れたのか突如瀬戸のほくろがなくなりました。
2001年12月の話。瀬戸輝信(32歳)に何があったのでしょうか・・・
2002年シーズンは木村一喜が台頭し、ルーキー石原慶幸も入団。瀬戸の出番は激減。ほくろを取らなきゃ良かったのに・・・
2004年オフ、現役引退。このシーズンは選手兼2軍コーチしてプレーしていました。35歳でした。
この時、カープ球団は西山秀二(37歳)にも引退勧告とコーチ就任を要請するが、現役続行を希望する西山は巨人に移籍しました。
2005年、瀬戸は第2次山本政権で一軍バッテリーコーチを務める。法政大学つながりはここにも生きていました。
2006年、ブラウン新監督の下、もう一年2軍コーチを務めてユニフォームを脱ぎました。
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