ファン=フェリシアーノ
1980年生まれの東出世代。ドミニカ出身。投手。右投げ右打ち。
サンチェス高校→ボストンレッドソックスアカデミー→カープアカデミー
2004年カープと支配下契約。年俸550万円。背番号74
プロ通算20試合登板。0勝4敗0セーブ。防御率8.95
もくじ
■ダグラスの代わり
■プレースタイル
■カープアカデミーでの大活躍
■2019年に再来日
■ダグラスの代わり
フェリシアーノは2003年に練習生として来日。
2004年、150kmの球速を買われ支配下契約。
この頃のカープアカデミーは巨大資本のMLBアカデミーに押され、経営危機に瀕しておりました。
アカデミーでは1995年のロビンソン=チェコ以来、約10年間有力選手をカープに送り込めていませんでした。
アルフォンソ=ソリアーノ、ペレスとケサダもMLBに移籍。
フェリシアーノに対する私の期待値も高いものではありませんでした。
実際最初の2年間で0勝。
3年目の2006年にチャンス到来。
先発投手のショーン=ダグラスと抑え投手のジョン=ベイルが相次いで故障。
苦肉の策としてブラウン監督はフェリシアーノを一軍で先発起用。
しかしやっぱり輝けず、2006年のオフにカープから解雇されました。
2007年はイスラエルで、2008~2009年はメキシコで現役を続けるも芽が出ず。
2010年はアメリカの独立リーグのテストを受けたりしますが結局30歳で現役引退。
■プレースタイル
ウィキペディアによると150km超の速球とありますが私は一度も彼の150kmを見たことがありません。笑
平均142~143km。max148km。
当時ではまあまあ速いほうでしたが、いかんせんこの人、変化球がありませんでした。
マジです。ションベンスライダーを時々投げてましたが、バッターに鼻で笑われそうなスライダーでした。
さすがに厳しいです。いくら速くても。
旧市民球場で先発フェリシアーノは絶望的でした。ごめんフェリ。
■カープアカデミーでの大活躍
んでフェリシアーノの活躍は引退後に始まりました。
2011年、誰が声をかけたのかフェリシアーノは投手コーチとしてカープアカデミー復帰。
なんかこういうのカープっぽくないですか。
スペイン語の通訳としてヒーローインタビュー界に歴史を残したクレートさんもプロ選手の夢を断たれた後、カープアカデミーにブルペン捕手として職を得ているのです。あったかいぜカープ球団。
フェリに声をかけたのも古沢憲司さんかなあ。←妄想
フェリシアーノは日本のプロ野球を知り、日本語や日本の文化も学びました。
これをカープアカデミーに持ち込んだ功績は非常に大きいと思います。
年齢の近い選手たちにとって良い兄貴分だったと思われます。
フェリシアーノはアカデミーの練習生たちに規律と継続と熱意の大切さを懇々と訴え続けました。
フェリシアーノは投手コーチですが、アカデミー全体に日本野球の心を伝えたと思います。
フェリシアーノの復帰後から
2014年ライネル=ロサリオ、
2016年サビエル=バティスタ、アレサンドロ=メヒア
2018年ヘロニモ=フランスア
など、アカデミーの原石たちが日本で大活躍したことは決して偶然ではないのです。
※関連妄想記事:ドミニカの青い空
■2019年に再来日
そのフェリちゃんが2019年4月、マツダスタジアムに戻ってきてくれました。
通訳のクレートさんが育休のためドミニカに一時帰国。
クレートの代役でフェリシアーノが15年ぶりに一軍復帰。
来日直後のインタビューでは名言を連発。
「初めてマツダスタジアムを見た。キレイデス」
「将来の夢は監督」
「一緒に戦った仲間はみんな憶えてる。サヤシ、ヨコヤマ、カンエイ、イオウ、スエナガ」
最初に出てきた名前が鞘師スカウト。笑
お二人とも二軍生活が長かったですからね。
2019年5月4日にサヨナラヒットのバティスタと共にお立ち台に初登場。
クレートばりのカタコト日本語でマツダスタジアムを大いに沸かせてくれました。