6小早川毅彦 [広島東洋カープOB]

小早川毅彦(こばやかわたけひこ)
1961年生まれ。内野手。右投げ左打ち。
1983年ドラフト2位でカープ入団。PL学園-法政大学。背番号6
プロ通算1093安打。通算打率.273。171本塁打。

もくじ
■アマチュア時代のライバルたち
■ポスト山本浩二
■記憶に残る一発が多い
■一時期よくモテた
■ヤクルト移籍
■引退後

■アマチュア時代のライバルたち
1978年に「逆転のPL」で有名になった大阪代表のPL学園高校が夏の甲子園で初優勝。
1978年の春のセンバツに2年で出場していた小早川だったが、優勝した夏の選手権では故障でベンチ入りを逃していた。
優勝チームにはエース西田真二、キャッチャー木戸克彦、控え投手に金石昭人。
翌1979年のセンバツはベスト4。夏は大阪府大会で牛島&香川を擁する浪商に敗れ甲子園出場を逃した。
この3ヶ月後にカープは江夏の21球で初の日本一に輝いた。

1980年、小早川は法政大学に進学。
1年春からいきなりPLの先輩・西田真二を差し置いて四番に座りベストナイン獲得。
小早川は大学4年間の春と秋のリーグ戦計8季のうち4季優勝。ベストナイン5回獲得。
法大時代のチームメイトは田中富生(日本ハム)、西川佳明(南海)、銚子利夫(大洋)、秦真司(ヤクルト)、山越吉洋(阪急)、若井基安(南海)ら。
ライバルチームには山沖之彦(阪急)、平田勝男(阪神)、高野光(ヤクルト)、仁村徹(中日)、広沢克実(ヤクルト)、竹田光訓(大洋)らがいました。
プロ野球選手だらけ十分凄いんですが、ここに名前を書いた人は全員ドラフト1位か2位で指名されています。
こんなに凄い人たちと切磋琢磨して、勝利してきたのが小早川率いる法政大学なのでした。

■ポスト山本浩二
アマチュア時代の輝かしい経歴。広島出身で顔も男前。浩二と同じ法政大学出身。
将来のミスター赤ヘルを大いに期待され1年目からレギュラー獲得。
チームも4年ぶりの日本一獲得。3番1塁で自身も新人王。
小早川は前途洋々のスタートを切る。
2年目3年目も順調に結果を残す。この頃は1塁長内、2塁小早川。
1986年に山本浩二が引退し、次の四番は誰か?が話題となる。
長内孝、小早川、そして新外国人のリチャード=ランスらが候補に上がる。
開幕直後はランスが爆発!しかしすぐにメッキがはがれだす。笑
長内は不調で5月頃から小早川が打ち始める。
1987年は小早川のキャリアハイのシーズンとなり、打率.286、24本塁打、93打点、16勝利打点。
打点はポンセと5打点差のリーグ3位。勝利打点はポンセを抑えて1位でした。26歳の時。

■記憶に残る一発が多い
1986年日本シリーズ第1戦。2-0で負けていて9回2死無走者。
完封目前の東尾修から反撃のソロをライトへ放り込む。
続く四番は山本浩二(40歳)。このシリーズが終われば現役引退を表明していた。
その浩二が東尾の外角スライダーをライトスタンドへ同点HR。土壇場で飛び出した新旧ミスター赤ヘルの最後のアベック弾だった。

1987年9月、ここまで12勝のベテラン江川と5勝の金石の息詰まる投手戦。
試合は9回裏2-1。巨人1点リード。2死無走者から3番高橋慶彦が1塁内野安打で出塁。
続く打席は前の打席で20号ホームランを打っていた四番小早川。
後に江川は「山倉のカーブのサインを無視してインハイにストレートを投げた」と発言。
江川の意地を力で打ち返した小早川。市民球場のライトスタン中段に逆転サヨナラ2ラン。
この試合は全国放送されており、私もテレビで見てました。江川が膝をつき、シーズン終了後に江川はこのHRで自分のストレートに自信を持てなくなったと引退した。

1993年9月29日神宮球場。首位ヤクルトvs最下位広島。
4回表、前田智徳(22歳)がライトへライナーの24号。
続く江藤智(23歳)がレフトへ高い放物線の30号。
そして5番小早川(32歳)がバックスクリーンへ13号。
どれもこの3人らしいバッティングで打った瞬間ホームランという当たり。
私の史上最も気持ちいい三連発である。←2018年現在
2016年のエルドレッド-鈴木誠也-堂林の三連発もこれには及ばない。
なおこの試合、カープは敗れており、対ヤクルトの連敗は9まで伸びることとなる。苦笑

■一時期よくモテた
1986年と87年の活躍で小早川は「若大将」だの「2代目ミスター赤ヘル」だの月刊カープファンなどフォト雑誌の表紙を多々飾ることになる。
同時期に売り出し中の二枚目捕手、植田幸弘が一軍に定着したのもこの頃。
1988年は沖縄キャンプで赤痢にかかり女性ファンが少し減る。
1989年に不調で市民球場のどこからともなく「はたらけ、はたらけ小早川」コールが自然発生。
以後、小早川のアイドル性が薄れていくこととなる。
1990年テレビ東京の女子アナと結婚。プロ野球選手と女子アナの結婚事例第1号である。
→中日の宇野という説もある。

■ヤクルト移籍
1990年に小早川は四番をロデリック=アレンに奪われる。
91年は高校大学の先輩、西田真二が突然四番に座りカープは5年ぶりのリーグ優勝。
93年はさっきの三連発を放つなど、前田江藤とともにカープのクリーンアップを形成するかと思われたが94年以降はメディーナ、ロペスの外国人と金本知憲、浅井樹らの若い左打者の台頭で出番が減る。
1996年オフ、小早川は戦力外通告を受ける。35歳。
そして三村カープとしのぎを削っていた野村ヤクルトが小早川を獲得。
「野村再生工場」として名を馳せたヤクルトで小早川はまた記憶に残る一発を放つ。
それがかの有名な1997年東京ドーム、開幕戦での3打席連続ホームランだった。
4月4日の巨人戦。2年連続沢村賞を獲得した斎藤雅樹からまさかの小早川3連発!
1997年ヤクルト優勝&日本一。小早川はルーキーイヤー以来2度目の栄冠に輝いた。36歳。※参考記事「はたらけドウバヤシくん

■引退後
1999年に現役を引退。
カープで打撃コーチもやりましたが、あまり目立った成果をあげたように思いません。ごめん小早川。
それよかNHKの衛星放送でメジャーリーグの解説のほうが凄い。NPBだと気の利いたこと言わないのに、MLBだとなんかカッコいい小早川です。

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おしまい
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