2高橋慶彦[広島東洋カープOB]

高橋慶彦(たかはしよしひこ)
1957年3月生まれ。内野手。右投げ両打ち。
1974年ドラフト3位でカープ入団。城西高校。背番号40→2
プロ通算1826安打。通算打率.280。477盗塁。
私をカープファンにしてくれた選手。この記事も非常に長いです。笑

もくじ
■練習の虫
■カープ女子を生んだ
■風来坊
■エロすぎる野球選手
■現役晩年
■現役引退後

 

■練習の虫
カープといえば猛練習。多くのルーキーから恐れられております。笑
練習の虫と言えば正田も凄かったし、金本も凄かった。
緒方前田ももちろんだし、鈴木誠也もバットを抱いて寝ていたほど。
この「カープ=猛練習」の伝統を作ったのが高橋慶彦その人であります。
慶彦は夜遊びも好きでした。赤いポルシェで芸能人とランデブー。
夜も盗塁王。上等です。
広島の選手なのに銀座の帝王。こんな人、後にも先にも慶彦だけ。
衣笠と江夏から悪い遊びをいっぱい教えてもらいました。笑
でも慶彦は野球もしっかりやりました。遊んだ分だけ練習しました。
彼女の部屋でも素振りをしてたとか。
高橋慶彦のアマチュア時代は四番でピッチャー。右投げ右打ち。
意外なことに慶彦は高校時代に1度も盗塁を企画したことがないそうです。走る必要がなかったから。
それがプロ入り後「俺の力じゃ1年でクビになる」と考え、スイッチヒッターの盗塁王へとモデルチェンジ。
「これまで右打者で野球を10年やってきた」
「次はこの1年間で左打席を10年分振り込めばいい」
これが慶彦の考え方で、慶彦の生き方。
天才肌の山崎隆造はすぐに左打席も打てたそうですが、慶彦は寝る間も惜しんで左で振った。
山崎は華麗にモデルチェンジ。
慶彦は泥臭くモデルチェンジ。
夜の遊びも好きですが、野球もちゃんと好きなのです。慶彦。

 

■カープ女子を生んだ
「ヨシヒコさーん、頑張って!」
このリズムを知っている人はかなりのオールドファンです。
球場に若い女性を呼び込んだ最初のプロ野球選手が高橋慶彦です。太田幸司?誰それ?
慶彦はとにかく格好いい。西崎幸広とか渡辺久信なぞクソくらえ。ケタ違いの男前。
当時のテレビのゴールデンタイムは毎晩スポーツ選手が独占していました。
長嶋茂雄、王貞治、アントニオ猪木、いかりや長介。
ゴツくてパワフルな男ばっかり。
そこに出てきた色白でスマートな高橋慶彦。
そりゃモテます。この時、元祖カープ女子が誕生したのです。
1番打者を「野球少年の憧れ」に昇華させたのも高橋慶彦。
イチローが出たのもタナキクマルが出たのも「1番ショート高橋慶彦」のイメージからです。←確信

 

■風来坊

北別府学と慶彦の不仲説は、広島では知らない人がいないほど有名でした。
実際のところはわかりませんが、私のイメージでは「犬猿の仲」という感じとは違うと思います。
だってグラウンドでは結構話をしてましたもん。この二人。
どちらもプライドが高く孤高というか、譲らない人だったんでしょう。
昔の野球チームはこんなでした。プライド集団。俺が俺がの世界。
仲良しこよしじゃありませんでした。昭和のプロ野球。これで良いのだ。
ダイエー時代は達川ともそりが合いませんでした。ヨシヒコ。子供か。笑



■エロすぎる野球選手
とにかくセクシーなんですよ。慶彦は。
歩き方も走るフォームもヒョコヒョコとしているんですが、何故かそれが妙に色っぽい。
エラーもさまになる。盗塁失敗も絵になる。不思議な魅力がありました。
作家の村上龍が高橋慶彦の小説を書いたほど。
誰も名字で呼ばない。カープのファンはみんなヨシヒコと呼びました。
当時のカープは山本浩二がコージだから「かっとばせコージ」
サチオにジツオも下の名前で「かっとばせコール」をやってました。
巨人ファンは誰も「シゲオ」とか「サダハル」なんて呼んでません。タツノリだけが「かっとばせタツノリ」でしたけど「行け―タツノリ!」と応援するファンは少なかった。
必ず下の名前で呼ばれるのは慶彦くらいなものでした。
このへんも妙にエロいんですよねえ。

歌のレコードを出す野球選手も多かった時代。
しかしレコードジャケットはみんな演歌か小林旭みたいな雰囲気。参考
そんな中、慶彦だけはアイドル顔負けのレコードジャケット。

ブロマイド(死語!)もたくさんあったなあ・・・
プロ野球チップスじゃないですよ。ブロマイドです。
原辰徳も爽やかでアーモンドチョコをカリッとかじりそうな感じでしたが、慶彦は何と言うかシャワーを浴びる制汗デオドラントのCMに出そうな雰囲気でした。
さすが夜の盗塁王。とにかくセクシーでした。
今風に例えるなら慶彦は「エロすぎる野球選手」でしたね。←これは妄想

 

■現役晩年
ロッテにトレード移籍後、今度は遠山昭治と交換で阪神に移籍。1991年
当時の阪神監督は中村勝広。
中村監督は慶彦に敬意を表してよく試合で使ってくれました。
しかし91年の打率は.206。34歳。
92年は3月のオープン戦に1番ショートで先発。芸能人の始球式のボールが右足に当たって骨折。
そんなに速くないですよ。球速100㎞くらい。
それをよけきれず骨折・・・これは切なかったです。
第1回IWGPの決勝戦「猪木vsホーガン」の試合くらい切なかった。
「慶彦はもう終わりかな・・・」と思えた出来事でした。

この慶彦のケガをきっかけにショートのポジションを獲得したのがドラ2ルーキー久慈照嘉。22歳。
実は前年の91年ドラフト会議。阪神はショートの選手を狙っていました。
私は浜名千広なら慶彦の立場はヤバくなる。久慈照嘉なら大丈夫と予想しておりました。
浜名千広は当時の大学最強チーム・東北福祉大学の1番打者。3番に金本知憲。
社会人の久慈は守備はいいけど打撃はイマイチという評価。
そして阪神は久慈を指名。
私は「よっしゃ慶彦の首がつながった!」と喜びました。
しかし慶彦骨折でチャンスを掴んだ久慈は開幕戦にショートで出場。
華麗な守備で阪神ファンを魅了し、打率こそ低いもののなんとオールスターのファン投票1位を獲得。んで新人王まで獲得。
この年は亀新フィーバーで阪神が大躍進を果たしたシーズン。
このオフに慶彦はひっそりと35歳でユニフォームを脱いだのでした。
新聞の端っこに小さく慶彦引退と載っていたのを覚えています。
慶彦は引退試合もなくひっそりと引退していたのでした。

 

■現役引退後
守備走塁コーチとしても活躍。

福岡ダイエーでは村松有人を、
千葉ロッテでは西岡剛をそれぞれ盗塁王に育てました。
ロッテやオリックスでは一軍打撃コーチも務めましたし、ロッテの二軍監督としてイースタンリーグの優勝も経験しています。
慶彦は若手からの信頼も厚かったようで私も嬉しいです。兄貴分的雰囲気。
慶彦がロッテの一塁コーチャーをしていた頃は西岡剛(21歳)が売り出し中でした。
2005年と2006年に西岡は2年連続盗塁王を獲得するんですが、この頃、塁に出た西岡と慶彦が一塁ベース付近でいつもイチャイチャ話をしていておりました。
投手が一球投げるごとにイチャイチャ、イチャイチャ。笑
もちろん投手のクセとか守備位置の確認なのでしょうけど・・・
私もあの中に混ざりたかった!です。
あの頃の西岡は好きでした。セクシーでした。

高橋慶彦は現在、広島市内で「ダイニング慶彦」というレストランを経営しています。
ご本人もよくお店に顔を出すそうで、ファンの方と気軽に写真を撮ってくれるそうです。
私もいつか行きたいです。
転々とパリーグのチームを渡り歩いた慶彦ですが、現在は広島にお店を構えたり、ツイッターでカープを応援したりとカープ愛あふれる余生をお過ごしです。
参考:高橋慶彦公式ツイッター

[妄想対決]高橋慶彦vs野村謙二郎

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おしまい
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