17山根和夫[広島東洋カープOB]

山根和夫(やまねかずお)
1955年生まれ。投手。右投げ右打ち。
1975年ドラフト2位でカープ入団。日本鋼管福山。背番号35→17
プロ通算78勝8セーブ。通算防御率3.31。
大野豊と同い年。北別府学は2学年下。1975年ドラフトは1位北別府、2位山根。

もくじ
■北別府学とのダブルエース
■スプリットを日本で最初に投げた投手
■日本シリーズ男
■トレードで西武へ
■引退後

■北別府学とのダブルエース
私がカープファンになったのが1978年。
ヤクルトvs阪急の日本シリーズで上田監督の1時間の猛抗議をテレビで見ていました。
翌1979年、カープはセリーグ優勝。2回目。
広島のそごうで、V2の金メダルと、市民球場でペナントを掲げる選手たちの写真入り下敷きを買ってもらいました。下敷きは恥ずかしかったけど大阪の小学校に持って行って使ってました。
江夏のサインボールも持ってましたが、江夏がトレードでハムに移籍すると、そのボールをケースから取り出し、練習用のボールとしてキャッチボールに使いました。裏切者と言いながら。←小学生

そんな時代のカープは第1次黄金期でした。
この頃のダブルエースが北別府学と山根和夫でした。
外木場義郎と高橋里志がちょっと衰えてきて、池谷公二郎もホームランをバンバン浴びていた頃です。
25歳の山根と23歳の北別府はカープの新しいエースたちでした。
当時はほっぺの赤い北別府学のほうが知名度が高く、インパクトあふれる名字もメディア受けが良かったです。
しかし私は山根のほうがなんとなく好きでした。
顔も好きでした。ダンディズムにあふれた「シブいおじさん」な感じ。
すみませんね。25歳の青年に。
でも当時の私は小学生。
プロ野球選手はみんなおじさんに見えていましたよ。

 

■スプリットを日本で最初に投げた投手
現役時代の山根は145㎞のフォークボールを投げていたと言われています。
当時小学生の私にはプロの投手が投げる球がカーブなのかフォークなのかもわからないので、ただ打った抑えたしかわかりませんでした。
しかし後の1986年。大旋風が起きます。
MLBヒューストン・アストロズのマイク=スコットという無名の投手がある魔球を習得して、いきなりサイ・ヤング賞を獲得。チームをリーグ制覇に導く18勝。
このスコットの操った魔球は「スプリット・フィンガード・ファーストボール」
当時の通称は「SFF」。現在は「スプリット」と呼ばれる高速フォークボールのことでした。
1986年のオフは日本でもこのボールの話題で持ち切り。テレビゲームのファミスタにもノーラン=ライアンと並んで無名のスコットがいきなり先発ローテ入り。
それはそれはたいそうなSFFフィーバーでした。

んで、その頃にマスコミでちょろっと報道されたのが
「元カープの山根和夫も145㎞のフォークボールを投げていた。今思うとあれもSFFだったのではないか」
という話。
若い頃の山根は150㎞の速球と140kmのSFFで真っ向勝負をするタイプの投手でした。
1982年にはシュートも覚え、今でいうツーシーム&カットボール、スプリットというメジャーリーガーばりの投球スタイルに変わっていきます。
これがかの有名な阪急ブーマーを抑えこんたピッチングスタイルです。

 

■日本シリーズ男
小学生の私がなんで北別府より山根が好きだったかというと、顔がタイプだったことがまず一つ。←変態
二つ目には「日本シリーズで活躍する」点も大きかった。
山根はカープ最多の「日本シリーズ5勝」をあげています。ぺいさんも頑張ってたよ・・・

1979年にシリーズ2勝。最優秀投手。MVP慶彦。
1980年もシリーズ2勝。優秀選手。MVPライトル。
1984年は1勝ですがこの1勝が第7戦で日本一を決めた試合。完投勝利。
つまり山根は「カープ最後の日本一胴上げ投手」なのです。←2018現在

もっと驚くのは1979年の日本シリーズでは第2戦、第5戦、第7戦に先発。
1980年と84年はもうエース。両年とも第1戦、第4戦、第7戦に先発しているのです。
3回出場した日本シリーズに全部勝利し3度の日本一に輝く。んで自身も3試合に先発しているのです。
この頃の小学生が山根に感じた「エース感」
ご理解いただけると思います。
1979年の第7戦と言えば江夏の21球として知られていますが、この試合に山根は先発登板しています。相手は近鉄・鈴木啓士。
山根は5回2失点。6回表に相棒の水沼四郎が勝ち越し2ラン。カープは2番手福士、3番手江夏と継投して球団初の日本一獲得!でした。

1984年はレギュラーシーズン16勝。
カープ優勝。日本シリーズでは三冠王ブーマーやトリプルスリー蓑田浩二らと対峙。
山根は北別府や川口和久とともに徹底したインコース攻めでこの中軸を苦しめました。
3試合に先発した山根の対戦相手は全部山田久志。そして3勝。




■トレードで西武へ
実はこの日本シリーズの頃から山根の右肩はもう悲鳴を上げていました。
1984年に日本一に輝くも、1985年と1986年は0勝。一軍で登板することすらなくなってきました。
この間にチームには金石昭人、川端順、長冨浩志などの若手が台頭。
1986年のオフに山根は金銭トレードで西武に移籍します。当時31歳。

西武ライオンズは故障持ちのベテラン山根にカープ時代と同じ背番号17を与えてくれました。
これは嬉しかった。今でも嬉しいです。
調べてみると西武の背番号17を山根の前につけていた選手は高橋直樹。
んで山根の次に17番を背負ったのが高木宣宏。すっかりカープ用の番号です。笑

移籍後はリリーフに転向。1年目は0勝に終わりましたが、2年目の1988年に5勝0敗2セーブ。
3年目には6勝1敗4セーブとクローザーに近いポジションでシブく活躍しました。
しかし1988年と89年のパリーグはブライアントと仰木マジックに全部かっさらわれて、西武のニュースはほとんどありませんでした。
山根の顔もあんまり見られなかったけど、私は当時の新聞で「山根は今日も9回を抑えたんだな」と確認すると顔がニタニタしてくるのでした。
1990年、西武ライオンズに潮崎哲也と鹿取義孝が入団し、山根の登板はゼロに。
山根はこの年のオフ、35歳で現役を引退しました。

 

■引退後

日本ハムでちょこっとだけ投手コーチをしましたが1999年限りで退団。
この後はNPBとのかかわりはなく、広島の飲料会社にお勤めだったようです。未確認
これだけの大選手なのにビールの営業とかしてたんかな・・・
ちょっと買ってみたいな・・・

アンガールズの山根さん。ジャンガジャンガの人。
あの人、熱烈カープファンで有名ですが、お父さんのお名前が「やまねかずお」さんなんですって。
そりゃカープファンになるよなあ・・・
あれ、私の知り合いに「やまもとこうじ」さんていたけど、カープでもロッテでもなく阪神ファンだったなあ。

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おしまい
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