西田真二 (にしだしんじ)
1960年生まれ。外野手。左投げ左打ち。
1982年ドラフト1位でカープ入団。PL学園→法政大。背番号28
通算777試合1412打数402安打、打率.285、44本塁打、226打点。
もくじ
■PL学園初優勝
■打撃と守備
■カープ最強の代打男
■打撃コーチとして
■独立リーグ監督として
PL学園初優勝
1978年、PL学園の3年生・西田真次は春のセンバツに「7番投手」で出場しベスト8進出。「6番一塁」が2年生の小早川毅彦で、「3番捕手」が木戸克彦(阪神)でした。
1978年の夏の選手権では3番捕手木戸、四番投手西田でPL学園初の全国優勝。西田の控えが3年生の金石昭人で木戸の控えが2年生の山中潔でした。
「逆転のPL」として全国に名を馳せるきっかけを作ったのは準決勝、決勝での四番西田のヒットでした。
西田は準決勝の9回裏先頭打者で3塁打。一挙4点を奪い同点。延長11回にサヨナラ勝ち。
決勝戦でも2点差の9回裏ツーアウトから西田の同点タイムリー2塁打、5番打者のサヨナラヒットで3点を奪い優勝サヨナラ勝ちを決めました。
西田は木戸と共に法政大学進学。
西田は大学で外野手に転向し、エースは田中富生。
田中、木戸、西田は3人揃って4年後にドラフト1位でプロ入りしました。
打撃と守備
西田1年目の1983年、カープの外野手は山本浩二(36歳)、長嶋清幸(21歳)、山崎隆造(24歳)の3人でした。
この年から背番号0と背番号1になった長嶋と山崎が西田のライバルでしたが、長嶋には浩二、山崎以上の守備範囲がありましたし、前年まで内野手(二塁)だった山崎は新外国人アイルランドの獲得によりセンターやライトでの出場が増えました。
長嶋や山崎が欠場する時には西田と同タイプの長内孝(25歳)がライトを守ることが多かったです。
そんな西田の現役時代のニックネームは「トラさん」
1983年にギネスブック登録された「男はつらいよ」の主人公ですね。
天才肌の打撃とのらりくらりとした雰囲気がまさにトラさんでした。
高校大学とチームメイトだった木戸は西田の天然ぶりにかなり困っていたそうです。笑
打撃フォームも大きく足を上げる一本足打法でアッパースイング。フォロースルーでは必ず左手を放します。
昭和50年代には極めて個性的な打撃フォームでした。外国人でもこんな大振りの選手はいませんでした。
当時は「最短距離でバットを出せ」「ボールの上を叩け」理論が全盛でしたが、西田の打ち方はPL時代から「遠回りのアッパースイング」でした。令和時代の打ち方に近かったです。
西田は決して三振かホームランの打者ではありませんでした。むしろ西田は広角に打てるアベレージヒッターでした。レフト線の2ベースヒットを何本見たことか・・・
私自身も左打者で試合ではいろいろな左打者のモノマネで打っていましたが、この西田の打ち方をすると空振りが減りました。
普段は前田智徳で打ってるんですが、不調の時やタイミングが合わない相手の時に西田打法はオススメです。
西田は足が遅くて守備範囲も狭かったです。
キャッチングとスローイングはまあまあ良かったです。
平成時代には四番スタメンが増えましたが、西田のメインポジションはレフトとライトでした。
2試合か3試合だけレフトアレン、センター西田、ライト長内という試合もありましたが、かなり怖かったです。この時山崎がサードで江藤がファーストでした。
1990年、東京ドームで金石昭人がクロマティに敬遠球をサヨナラヒットされるんですが、あの時のライトが西田でした。
ライトオーバーの2ベースに西田がダイビングキャッチするも僅かに届かず。
山崎なら捕れたと思います。PL同級生を救えなかった西田なのでした。
盗塁も案外多いです。いつもだいたい無警戒なのでよくこそっと2塁へ走ってました。笑
カープ最強の代打男
西田は現役時代のほとんどを「代打の切り札」として過ごしました。
プロ初ヒットも代打でした。1983年5月10日巨人戦に代打で登場。相手は大学の先輩江川卓(27歳)でした。
初ホームランも代打。6月18日の中日戦で郭源治(27歳)から。
2号本塁打は8月6日の中日戦。堂上照(32歳)からダメ押しスリーラン。この投手は堂上兄弟のお父さんです。
3号本塁打は8月14日の巨人戦。西本聖(27歳)から1点差に迫るソロ。
4号本塁打は8月19日のヤクルト戦。宮本賢治(23歳)から同点ツーラン。
これ全部が代打本塁打です。ウィキペディアによると西田真二は1983年に「4連続代打本塁打」のセリーグタイ記録をマークとありますが、これは「代打で4打席連続本塁打」を打ったという意味ではなく「4本塁打が全て代打での打席だった」という意味。
4本塁打の間には三振もあれば、先発出場で3打数1安打とかもあります。
とにかくこのように西田は背番号28の先輩萩原康弘のようにルーキーイヤーから「代打の切り札」的な活躍を続けました。
当時の野球は先発完投時代であり、カープには三本柱がいて古葉野球でした。
代打西田の出番はもっぱら「負けてる試合」が中心でした。
そこで見せる西田の天才的なバッティングはまさに「逆転のPL」でした。
1983~88年までの6年間、西田の打席数は出場試合数とほぼ同じでした。
1985年に西田は衣笠祥雄の代打に出たこともあります。
5月19日の対中日7回戦、ナゴヤ球場。0対1の9回表2死満塁。投手は高校時代にしのぎを削ったライバル牛島和彦(24歳)
結果は押し出し四球で同点。チームも10回に勝ち越して勝利。
後に西田はこの打席を「生涯で一番思い出に残る打席」と述懐しました。そりゃそうですよね。笑
西田が出塁すれば代走今井。次の守備には守備要員が付くことが多かったです・
1989年から浩二引退、ランス退団でロッド=アレンと共に四番で先発することも増えました。
先発した89年と90年は打率.350をマークしました。1991年も夏場までは.350でした。んでチームも優勝。
しかし私は「代打西田」が好きでした。水島新司の「あぶさん」に似ていたからです。
通算本塁打は44本。なんと正田耕三とまったく同じ。笑
代打本塁打13本は町田公二郎に抜かれるまで球団記録でした。
打撃コーチとして
西田は天才前田智徳が師事した人物の一人でもあります。
前田の師匠としては水谷実雄が有名ですが、ともにプレーした「選手西田」の打撃にも前田は一目置いていたそうです。
現役時代の西田は練習嫌いなイメージでしたが、指導者になっても天性の感覚を持っていました。
1995年に35歳で現役引退。足の故障と町田、浅井の台頭。
1999~2000年は一軍打撃コーチ。2001年は二軍で打撃コーチを務めました。
西田の在籍はわずか3年間でしたが1年目には緒方孝市が36発とブレイク。ルーキーの新井貴浩を一軍に抜擢したのも西田真二でした。
二軍では嶋重宣、東出輝裕、栗原健太などを指導しました。
独立リーグ監督として
2004年にオリックスをクビになった石毛宏典が突如独立リーグ構想を発表。
その名は四国アイランドリーグ。4球団。
2005年に西田は愛媛マンダリンパイレーツの初代監督に就任。
当時の石毛はダイエーの時もオリックスの時もヘンなやめ方をしていたので、私は
「西田はコイツに付いてって大丈夫か?」
とちょっぴり心配でした。
結局、石毛は3年ちょっとで四国アイランドリーグから退散します。
2006年、西田は1年だけ広島に帰りました。
2007年、西田はまたアイランドリーグに復帰。2007~2019年まで13年間香川オリーブガイナーズの監督として若手の育成に努めました。
西田のカープでの選手生活は13年でした。22歳から35歳。
香川の監督も13年です。47歳から60歳まで。
あの西田も60歳かあ・・・
ついに監督も引退するのかあ・・・
と思いきや2019年11月に社会人野球セガサミーの監督に就任。
2020年の都市対抗ではカープのドラ1栗林良吏(24歳)を破ってベスト4進出。
まだまだ元気です。オジイの西田。笑