広池浩司 (ひろいけこうじ)
1973年生まれ。投手。左投げ左打ち。
1998年ドラフト8位でカープ入団。立教高→立教大→全日空。背番号68→28
通算248試合9勝12敗1S、268回、被安打346、ERA5.47。
もくじ
■「入団への道」
■広池のブログ
■広池の涙と清原の500号
■困ったら広池
■西武で活躍
「入団への道」
広池浩司と言えば真っ先にその「ドラマチックな入団経緯」が思い出されます。
1995年、立教大学4年生の広池は主将として4番センターで活躍。プロ入りを希望するもドラフト指名はナシ。六大学のライバル・高木大成(慶応)は西武を逆指名入団。
1996年春、広池は野球部のない全日空(ANA)に入社。野球をやめ羽田空港のカウンター業務を担当する。
1997年夏、大学の1つ先輩・川村丈夫(日本石油)がアトランタ五輪で銀メダル獲得。この姿を見て広池浩司は広島カープの入団テストを受けるため全日空を退社する。
1997年秋、24歳になっていた広池は投手としてカープの秋季キャンプに参加し入団テストを受ける。一次試験に合格するも、この年は編成上の理由から広池のドラフト指名を見送ることが通告された。
1998年2月、広池はカープ球団の勧めでドミニカのカープアカデミーに8ヶ月間野球留学。この年30試合に登板する。この間の留学費用は自費でした。10月に帰国し再びカープの秋季キャンプに参加。プロ入り前に2度も秋季キャンプに参加した選手は広池くらいのものでしょう。
1998年11月、ドラフト会議で新井貴浩(駒大)の次の次、最後の最後にカープが広池を8位で指名しました。
広池のブログ
広池の「入団への道」はカープファンの間では非常に有名です。
なぜか?理由は二つ。
一つ目は「立教大学→全日空」の超エリートコースを捨ててまでカープの入団テストを受けたドラマ性が注目されたから。
二つ目はプロ入り後に広池自身が「入団への道」へと題して、そのいきさつをブログに長々と書いてくれたから。
みなさん、覚えてます?
広池のマジメなブログ。
2000年代にブログを書いているプロ野球選手は希少でした。
「電車男」が書籍化されたのが2004年。
眞鍋かをりが「ブログの女王」と言われたのが2005年です。
広池浩司は2008年にブログ開設。
この時期、カープ関係者でブログを書いていたのは石井琢朗(当時横浜)、鈴川卓也トレーナー、それと広池くらいのものでした。
広池が自ら記した連載記事は野球ファン以外の学生や社会人からも賞賛を浴び、ついに「ブログから書籍化」が実現します。
それがこちら。現在は絶版となりましたが、当時はマツダスタジアムでも販売されておりました。
ただしこちらも自費出版でした。笑
自費で挑戦し続ける男、それが広池浩司であります。
この二つのエピソードに代表されるように、現役時代の広池のプレースタイルは大人しそうな風貌に似合わず、チャレンジ精神あふれるアグレッシブなものでした。
サイドハンド気味のスリークォーターから最速144km、平均137kmくらいのストレート、スライダー、ナチュラル気味のシュート。フォーク(シンカー)は落ちてるのか落ちてないのかよくわかりませんでした。
大した球威も制球力もないのにポンポンとテンポ良く投げ込む度胸を持っていました。
そしてテンポ良く打たれていました。苦笑
広池の涙と清原の通算500号
2005年、広池を一躍人気者にした伝説のエピソードが「広池の涙」事件。
それは2005年4月7日(木)の広島阪神3回戦で投手広池の単独スチールから始まります。
2005年、カープは東京ドームの開幕戦で9回表に緒方孝市がダン=ミセリから逆転ツーランを放つなど巨人を3タテ。
勢いよく広島に戻ったものの、佐々岡真司と長谷川昌幸が阪神のシーツにボコられ炎上。広池も大学時代のライバル中村豊にダメ押し打を浴びていた。
カープの2連敗で迎えた4/7(木)のvs阪神3回戦。
この試合も井川慶と高橋建がグダグダで7回を終わって7対7の同点でした。
広池浩司は8回表から登板。開幕6試合目で早くも4試合目の登板。
8回表を無失点に抑えた広池は8回裏2死無走者で打席に立ちます。
阪神の投手はジェフ=ウィリアムス。
捕手の矢野燿大は2死無走者ですがジェフに一声かけます。
「コイツ、バッティングいいから油断すなよ」
広池は野手顔負けのスイングで初球からスイング。
打球は高いバウンドのサードゴロ。
サード今岡が突っ込んでくるが、広池も全力疾走して一塁セーフ。
広池が勢い余ってライトの芝生まで走り抜ける姿に
「どうせツーアウトなのに疲れることすなよ」
とファンは冷ややかでした。
2死1塁となり打席には1番尾形佳紀。
1球目はボール。
2球目、1塁走者・広池がおもむろにスタートを切る。ちょっと遅れて気が付いた市民球場。
「エッ、走るの!?」
焦る矢野は握り直して二塁へ送球。
ショートがタッチに行くが、広池のヘッドスライディングは鳥谷の手をかいくぐりセーフ!
2塁ベースに触れたのは広池浩司の投げる腕、左手でした。
驚いて笑う山本浩二監督と苦い顔で怒る安仁屋投手コーチ。
ベンチの新井や東出は盛り上がっていました。
尾形は四球でつなぎ2死12塁。
2番は福地。阪神の外野は超前進守備。
福地がファールで粘る間、2塁走者の広池は何度も何度も全力でスタートを切っていました。ヘロヘロになる広池。牽制を投げられると頭から二塁に帰っていました。
結局福地は良い当たりのファーストゴロ。一塁シーツが上手かった。クソ・・・
9回表、ユニフォームがドロドロの広池がキャッチボールナシでマウンドに上がる。
阪神の攻撃は1番赤星、2番藤本、3番シーツ、4番金本、5番今岡。
おそらく広池の役割は4番の金本まで。
1番赤星を打ち取るが2番藤本に四球を与えクリーンアップへ。
打席には打撃好調のアンディ=シーツ。昨年までのチームメイトですが、それよりも優勝候補阪神の3番打者としてこれ以上ノセるわけにはいかない相手。
しかし広池の投げたボールはシーツの好物外角高めへ。打った瞬間それとわかる勝ち越しツーランが右中間スタンドに飛び込んだ。
ガックリ広池。
しかし仕事はまだ終わらない。金本を打ち取ってお役御免。
新人の梅津智弘にボールを渡しベンチに下がる広池浩司。
市民球場からは暖かい拍手。
広池はベンチでタオルをかぶって号泣。この涙に仲間は燃えました。
9回裏はJFKのK、久保田智之。
3番新井がしぶとくヒット。4番嶋が同点ツーラン!!
5番前田はライト前、この日4本目。代走東出。
8番木村一喜のレフト前、9番代打の浅井樹がサヨナラヒット。カープ10対9でサヨナラ勝ちィ!!!
長くてゴメンナサイ。笑
この試合、当時C-takeさんという方のカープブログ「Cb」でメチャクチャ盛り上がったんですよ。
Yahoo掲示板には広池さんご本人も登場したりして、もうしっちゃかめっちゃかに盛り上がった試合でした。笑
この試合の2週間後、通算500号に王手をかけた清原和博が売り出し中の阪神・藤川球児と対戦しました。この時、清原はフォークに三振した怒りで「チンポコついとんのか!」と発言。
その1週間後、清原は市民球場で広池から500号を放ち「ヘッドスライディングするようなガッツのある広池投手から打てて嬉しい」と発言しました。
困ったら広池
翌年の2006年が広池浩司のキャリアハイ。
自己最多の47試合59イニングを投げ4勝2敗。防御率3.20。
当時の清川栄治コーチが吐いた名言「困ったら広池」もカープファンの間で流行しました。
チームが勝っていても負けていても毎日広池。時には先発までこなしました。
広池はアマチュア時代に外野手だったことから、公式戦で代打起用されたこともありました。
2006年8月5日の阪神戦。5回表の送りバントの場面で「広池はバントが上手いから」という理由でブラウン監督は野手が残っているのに代打広池を起用。結果はバント失敗。広池はこの後を投げずにバントだけで交代し、翌6日に先発登板しました。
野手出身で実際にバッターボックスでの「構えた感じ」も決まっていたので、広池は打率.250くらい打ってそうな感じでしたが、実は広池の通算打撃成績は「22打数2安打、1本塁打、1盗塁、打率.091」です。
ルーキーイヤーのプロ初打席初ホームランのインパクトが強烈ですが、実は広池がプロで放ったヒットはこのホームランとヘッドスライディング前の内野安打の2本だけだったのです。ちょっと意外でした。
もし広池がもう少しヒットを打っていたらもっと広池のヘッドスライディングが見られたかもしれませんね。
西武で活躍
2009年に36歳で左肘を手術。
2010年に一軍復帰するも7月6日の巨人戦で3点リードを守れずノックアウト。
4番アレックス=ラミレスに勝ち越しツーランを浴びた後、5番阿部慎之助を打ち取ったのが広池の最後の投球でした。
秋に戦力外通告。トライアウトを受けるか、カープに残るか、実家のある埼玉に帰るかで埼玉を選択。
西武ライオンズの打撃投手として2年働いた後、球団職員に転身。
2021年現在の広池の肩書きは「球団本部長補佐兼チーム戦略ディレクター兼メディカル・コンディショニングディレクター」。ライバル高木大成と共に西武ライオンズを支え続けております。
追記(2024.10.24)
2025年1月より広池浩司が西武ライオンズの球団本部長に昇進することが決まりました。
球団本部長とはチーム編成のトップです。誰をクビにして誰をドラフト指名するか、誰をFAで取って誰の年俸をいくらにするか、それらを決める編成部門のトップです。
西武ファンだった少年がテスト入団、戦力外通告、打撃投手からの球団本部長。自伝の続編を書かないといけないぞ、広池!