15黒田博樹[広島東洋カープOB]

黒田博樹(くろだひろき)
1975年2月生まれ。投手。右投げ右打ち。
1996年ドラフト逆指名制度でカープ入団(2位)。専修大学。背番号15
通算203勝。NPBで124勝、MLBで79勝。

もくじ
■高校時代は控え投手
■苑田さんの漢気を逆指名
■風雪に耐えて梅花麗し
■FA移籍
■MLBのローテを守る
■カープに復帰
■永久欠番

■高校時代は控え投手
黒田博樹は大阪市住之江区出身。実父は南海ホークスの捕手。
そして黒田も大阪の名門、上宮高校に進学。
スケールの大きな素材だった黒田でしたが、コントロールが悪く1学年上の薮田安彦(元ロッテYFK)とともにとにかく罰走ばかりさせられていたそうです。
黒田が3年時のエースは元日本ハム西浦。黒田は3年間で公式戦の登板はゼロでした。
この時、黒田は
「野球は高校で終わり」
と感じていたそうです。
しかしご両親の説得で大学でも野球を続けることを決意。
入学したのは当時東都の2部だった専修大学でした。
同じ頃、松井秀喜は巨人からドラフト1位指名を受けていました。

■苑田さんの漢気を逆指名
入学した頃の専修大学は2部リーグで、投手陣も弱かった。
黒田は1年生からベンチ入り。他の投手がいないのでそこそこ試合で使ってもらえました。
3年生の夏頃から黒田はエース格に成長し、この頃からカープの苑田聡彦スカウトが専修大学のグラウンドを訪れ始めました。
苑田さんいわく
「実は1学年上の小林幹英を見に行ったんだ。その時に黒田を見た。球に強さを感じたし、練習も手を抜かない。打たれると同じ球種を同じコースにもう一度投げ込む。いい選手を見つけられて嬉しかった」
3年秋に小林幹英と黒田の活躍で専大は1部昇格を果たす。
4年時には青学井口(元ダイエー)、東洋今岡(元阪神)を切って取り、球速も150kmを超えました。
他球団のスカウトも大勢やってくるようになりましたが、黒田は苑田スカウトに敬意を表しカープを逆指名。1996年。
逆指名時代なので札束攻勢もあったと思うんですが、2部リーグの無名時代から通ってくれた苑田さんを黒田は逆指名したのです。
この年の松井秀喜は38本塁打をマーク。
後のライバルとなる二人ですが片やセリーグMVP。

■風雪に耐えて梅花麗し
1997年。黒田は1年目から先発ローテで規定投球回数をクリア。6勝9敗。ERA4.40。
当時は野村ヤクルトの黄金期。古田敦也が2度目のMVPを獲得。
この年のカープは3位でしたが66勝69敗。勝率.489。
黒田と同期の沢崎俊和が12勝で新人王獲得。
大野豊が史上最年長(42歳)で最優秀防御率のタイトルを獲得。
若干21歳で背番号53の横山竜士がリリーフだけで10勝をマーク。
ルーキーで153km出してた黒田ですが、当時はまだ真っ直ぐとスライダーだけの投手でした。
被安打も多く奪三振も少なかった。

1998年と1999年は防御率6点台。
しかし2000年に9勝6敗。
フォークを憶えてセリーグ最多7完投でプチブレイク。
私はこの頃、
「黒田(26歳)はもう佐々岡(33歳)を超えた!来年の開幕は黒田!」
と叫びました。

翌2001年。新監督の山本浩二は開幕投手に佐々岡を指名。
佐々岡は7回11安打3失点で黒星。
2戦目は黒田。サードの新井貴浩が2失策して黒田は完投サヨナラ負け。
ちなみにこの日は2001年3月31日。フジテレビ「プロ野球ニュース」の最後の日でした。
2001年の黒田は12勝8敗。13完投。
松井秀喜には逆転サヨナラHRを打たれたものの、やっと同じ土俵に立つことができた黒田博樹27歳。
このオフ年俸が3500万円から7700万円に倍増。一流投手の仲間入り。
2002年のキャンプから黒田は毎年のように「チェンジアップを練習する」と言いだし毎年失敗。
シーズンもいまいちな感じを繰り返します。
「フォークがあるんやからチェンジアップはやめとけ」と私が再三説得するも黒田は応じず。←妄想
2005年今度は黒田はシュートを投げ出しました。
これがめちゃくちゃ凄い球で大成功。黒田は2005年に15勝12敗で最多勝獲得。
風雪に耐えた梅花がが見事に大輪の花を咲かせました。

■FA移籍
2006年はブラウン新監督のもと「中4日100球スタイル」に挑戦しました。
その結果勝ち星は減ったものの防御率が1.85と急上昇。もうこの頃はストレートも155km越えを連発して年俸2億円。
そしてこのオフが例のFA騒動の年。
公式戦の最終戦。広島市民球場。ライトスタンド応援団の伝説の垂れ幕が炸裂!
「我々は共に闘って来た
今までもこれからも・・・
未来へ輝くその日まで
君が涙を流すなら
君の涙になってやる」
黒田は男気残留を決めました。
年俸3億。1年契約。

■MLBのローテを守る
2007年のオフ、黒田は涙ながらにFA宣言。
ロサンゼルス=ドジャースに移籍。新井はしれっと阪神移籍。
ドジャースでも打球を頭部に受けた2009年シーズン以外はほぼ毎年200イニングを投げてローテを守る。
2008~2011はドジャース。
2012~2014はヤンキース。
MLBの名門球団で7年79勝をマーク。
しかし黒田はアメリカでも援護のない投手として有名で、7年間で1319回を投げた投手としては非常に勝ち星が少ない投手でした。

■カープに復帰
んで黒田博樹40歳。
ついにカープに電撃復帰。
毎年単年契約でヤキモキさせた黒田がついにカープに帰ってきました。
マツダスタジアム完成、マエケン登場、堂林とカープ女子、大瀬良入団、キクマル台頭で盛り上がりまくるカープに黒田が電撃復帰。新井もしれっと復帰。
盛り上がるマツダスタジアム。
緒方孝市新監督がドジって2015年はBクラス。
しかし2年目の2016年は開幕からセリーグを独走して25年ぶり優勝。

25年ぶり・・・
長かった。ほんとうに長かったよ。
緒方監督が胴上げ。ワッショイワッショイ。
続いてなんと黒田も胴上げ。ワッショイワッショイ。
んで新井もしれっと胴上げ。なんで俺なのワオワオワオ。
セリーグMVPも新井貴浩。

この時の黒田と新井の10秒間の抱擁で泣かないオールドファンはいません。

我々は共に戦ってきた

今までもこれからも

カープファンは本当に黒田博樹の涙になれたのです。
ありがとう黒田!

■永久欠番
2016年カープが優勝を決めた数日後、黒田博樹は今シーズン限りでの現役引退を表明。
本当は2015年で引退させてあげたかった。
しかし黒田はリーグ優勝のためボロボロの体でもう1年マツダのマウンドに立ってくれた。
MLBに移籍した時から
「この試合が俺の最後の試合」
「この1球が俺の最後の1球」
という覚悟で投げ続けた黒田。

複数年契約を断り、単年契約を希望する黒田を不思議に思ったアメリカ人記者に黒田はこう言い放ちました。
「俺は本当は1ヶ月契約を結びたいんだ」
「俺はいつもこの試合が最後の試合だという覚悟で投げているから」

NPB復帰後も黒田は常々
「通算199勝で終わってもかまわない」
「俺に残された球数は多くない」
と語り、とにかくチームの勝利にとことんこだわりました。

黒田引退後すぐに松田元オーナーは黒田の背番号15を永久欠番にすると発表。
北別府学野村謙二郎前田智徳らカープ生え抜きで名球会入りした選手を差し置いて21世紀の黒田が永久欠番に選ばれた理由。
それは野球の成績のみならず、黒田の人間性やチーム愛、チームに与えた影響力によるものだと私は思います。

ちなみに黒田の通算203勝のうち202勝は先発投手として挙げたもの。
「先発登板で200勝以上」は大卒200勝投手5人の中で黒田だけ。
さらにNPB&MLB200勝2人の中でも黒田だけ。野茂は先発199勝&リリーフ2勝です。

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おしまい
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