0高信二[広島東洋カープOB]

高信二(こうしんじ)
1967年生まれ。内野手。右投げ左打ち
1985年ドラフト2位で入団。福岡県立東筑高校。背番号30→0
東筑高校は県内一の進学校でOBには俳優の高倉健さん、名監督の仰木彬さんなど名士多数。
高信二も3年春に甲子園に出場している。


もくじ
■とにかく細身
■守備はうまいが盗塁は少ない
■トリオザシンジ
■将来の幹部候補
■そしてヘッドコーチとして3連覇

■とにかく細身
入団時からとにかく細身で見るからに非力でした。
現在は176cm72kgとのことですが入団時はもっと細かった。60kg台だったことは間違いないでしょう。
一軍に定着し始めた5~7年目(1990~1992年)あたりから守備固めとして一軍に定着。
当時の3塁を守っていたのが山崎隆造江藤智だったので、試合終盤に「3塁高・ライト山崎」という布陣が多くなりました。

若い頃の打撃は非力で、高の打球がライト方向に飛んだのを見たことがありませんでした。

9年目の1994年から代打起用が増えます。当時の代打男・原伸次が横浜ベイスターズに移籍したため。
この頃になると少し引っ張れるようになってきました。でも高のヒーローインタビューの記憶はありません。
当時絶対的だった「大魔神」こと佐々木主浩と相性が良く、高のプロ初ホームランは佐々木からでした(1992年)。しかもライト上段への特大アーチで私は腰が抜けるほど驚きました。

1995年には浅井樹が台頭。
1996年からは「左の切り札は浅井、右は町田」というカープ代打陣黄金期が到来。
高は1998年に31歳で引退しました。

 

■守備はうまいが犠打や盗塁は少ない

通算で守った守備位置は2塁を174試合、3塁を296試合、ショートを72試合。
本職はショートなんですが同時代には野村謙二郎がいました。
守備力は決して名手とまではいかず「安定感があるな」ぐらい。
市民球場ではちょいちょいポロッとやる場面もありました。
ただ捕ってからの悪送球というイメージはあまりありませんでした。

96年に野村が故障してからショートをちょいちょい守るようになると、高は広い守備範囲を見せました。
「やっぱ高ってショートが本職やったんやなあ」と感心した記憶があります。
小兵の高でしたが送りバントは飛び抜けて上手い感じでもありませんでした。下手ではありません。
バントの構えが少年野球のようで、高の人間性とひたむきさが伝わってきました。
顔の前にバットを真横に寝かせてクイクイとリズムを取ります。足は開き気味。3塁方向に転がすことが多かったかな。
代走から守備固めで登場することも多かったですが盗塁数は少ない。通算8個。

■トリオザシンジ
高の時代のプロ野球は一軍バリバリの選手しか打席に立った時の「特定の応援歌」はありませんでした。
西田真二さえ当初はなかった。
西田真二、原伸次、高信二はトリオザシンジとして魔法使いサリーちゃんの曲が流れていました。
91年に佐々岡真司がトリオに加わると、四番打者に定着した西田真二にはハワイアン調の応援歌が付きました。牧伸二の「あー、あーあ、やんなっちゃうな、あーあーあ、驚いた」のもと歌です。


■将来の幹部候補
入団して間もない頃・・・いやドラフト指名されたその日から高は「東筑高校出身で将来の幹部候補」と報道されていました。18歳のプロ入り前の野球選手に向かって幹部候補って・・・違和感ありまくりました。
顔は男前で本当に銀行員か公務員のようでした。
そりゃ確かに野球選手には見えないけどさ・・・
当時の高はどんな心境だったのかなぁ・・・

■そしてヘッドコーチとして3連覇
んで本当に幹部になってからの高は大活躍!笑
1998年に引退し、99年達川新監督のもとで高は2軍コーチに就任。
2003年に一軍コーチ。守備走塁コーチとして3塁のベースコーチャーもやりました。
野村謙二郎監督時代にはヘッドコーチ格を務め、2015年だけ2軍監督をやった後、2016年から緒方孝市監督をサポートするヘッドコーチに正式就任。
んで3連覇ですよ。黄金時代。
緒方も名将ですが、軍師官兵衛の高ヘッドがいてこその3連覇。
将来の幹部候補は伊達じゃありませんでした。笑

この高さん、新聞やテレビに絶対に真実を話しません。笑
いつも無難な言い回しで逃げています。
東出輝裕コーチがいつも挑戦的なコメントを口にするのと好対照。
東出も大好きな名コーチですが、策士感、名将感はやはり高に軍配です。笑

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おしまい
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