木村拓也・伝説のNPB新人研修会2010年

2010年3月2日
NPB新人研修~木村拓也コーチ講義内容

この講演は非常に有名で2010年に入団した全ルーキーを集めて東京都内のホテルで行われたもの。
講師は昨シーズン引退したばかりの巨人軍の木村拓也・内野守備走塁コーチ(37歳)
この新人研修を受けたルーキーは堂林翔太、今村猛、筒香嘉智、菊池雄星ら。
キムタクコーチはくも膜下出血のため、この講演からおよそ1ヶ月後、若すぎるお別れとなります。
以下は生前のキムタクコーチが堂林たちに語ったプロ野球選手の美しすぎる生き様です。

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木村拓也コーチの講演全文

 高校時代は4番を打っていて捕手でした。19年間プロ野球選手をやって、最後は2番・セカンドになった。そのいきさつを話そうと思います。
 1990年のドラフトで僕は指名されませんでした。当時は6位までに指名されなかった選手は「ドラフト外」で自由競争でした。僕は高校通算で35本塁打打っていて、宮崎県のお山の大将で、ドラフトで自分の名前が出ないでショックでした。ドラフト外で日本ハムに入団する時にスカウトから「入ったら横一線だから。プロの世界は自分が頑張って結果を残せば一軍に上がって大変な給料がもらえる」と言われました。

 

 でも入ってみるとちょっと違っていた。新人のみなさんはキャンプを1か月やって「これならやれるな」と思った人と「すごい、ついていけないかも」と思った人がいるでしょう。僕はキャンプ初日にシートノックでボール回しをやった時に「とんでもない所に来た」と思いました。プロのスピードについていけない。ドラフト外というのもなるほどな、これはすぐにやめて田舎に帰らないと、と思いました。

 当時、開幕前に60人という支配下登録の枠がありました。僕は登録されなかった。新聞に任意引退選手と出て、故郷から「2か月でやめるのか」と電話がありました。今の育成選手は二軍の試合に出られるし、シリウスやフューチャーズがある。僕の時には支配下からもれたら試合に出られずひたすら練習。「何しにプロ野球に入ったんだろう」。今の育成は野球をやるチャンスがある。どんどんアピールして頑張ってほしい。

 

 2年目、一軍にけが人が多く出ました。二軍の野手が一軍に呼ばれて、二軍監督から外野を守るよう言われました。試合に使ってもらえるならと外野手をやり、まず第一歩を踏み出しました。そしてファームで1番を打っていた選手が米国に野球留学し、他はけが人も多く「1番がいないから、お前が打て」とコーチに言われ、何て運に恵まれているんだろうと思いました。そして9月、一軍にけが人が多く初めて一軍に上がりました。結局、2年目は3本ヒットを打ちました。

 

 3年目は開幕一軍でしたが、ほとんどが守備要員でした。1か月ほどで二軍に落ちて、それ以降は一軍に上がらずでした。3年目のオフに転機がありました。9月末から12月末の4か月間、ハワイのウインターリーグに参加しイチロー選手といっしょでした。1歳下のイチロー選手に衝撃を受けました。4か月間同じ部屋で、朝起きたらいない。朝からウエートトレーニングをしていたのです。このウインターリーグでイチロー選手は首位打者を獲りました。自分はこんなんじゃだめだなと思い、イチロー選手が僕の野球人生を変えてくれた一人になり、感謝しています。

 

 4年目は1年間一軍にいましたが守備要員でした。しかしやっと「野球選手になれたな」と思っていたのですが、広島にトレードになった。正直「何でおれが」と思いました。広島は当時、野村、江藤、前田、音、緒方、金本の名選手ぞろい……僕に入り込むすきはなかった。移籍1年目は数試合に出て7打数で安打なし。「これはクビになるな」と思い「どうやったらここで生きていけるか」と考えました。一軍のレギュラーの中ではセカンドが確か34、35歳のベテラン(正田耕三)だったのでセカンドをやるしかないと練習するようになりました。

 

 移籍2年目は一軍を行ったり来たり。それまでは右打席でのみ打っていましたが、左投手の時には代打で出られるけれど右投手だと代えられる。どうしたら代えられないようにできるか。左打席で右投手が打てるようになればとスイッチヒッターに取り組みました。自分が生きていくためには必要だと。

 

 スイッチヒッターになって1つ気づいたことがあります。例えば右打者の時、右投手の外の真っ直ぐと左投手の外の真っ直ぐは同じではなく角度が違う。スイッチヒッターは練習は人の倍やらないといけないが、右打席の右投手のような自分の体に近いところから来る球がなくなりました。球種が半分になったようなものです。打つのが一番難しいのですが、体に近いところから遠いところに逃げていく球がなくなった。それに気づいてからは打てるようになりました。プロに入って9年かかって、10年目に136試合フル出場しました。野球選手の平均寿命が8、9年で自分がそこまで生き残れました。

 

 今、みんなは希望にあふれて「レギュラーを獲って生き残ってやる」と思っているだろうが、必ず壁にぶつかる。そんな時、少し言葉で考えると僕みたいに生き残れる。挫折してあきらめるのか、そうでないのか自分で考えないといけない。

 

 そして34歳の時、トレードでジャイアンツに来ました。広島が若手選手への切り替えを図っていて、僕は出場機会が減りそうだったのですが、子供はまだ小さく、家のローンも残っている。「トレードに出してください」と球団にお願いしたのですが、決まったのが(戦力が充実している)ジャイアンツ。「出番を求めているのに何でジャイアンツなんだろう」と思いましたが、入団してみるとけが人が続出してチャンスがもらえた。

 

 最後にジャイアンツに入って3連覇や日本一を経験し、勝つ喜びを知った。今までは自分の事だけを考えていました。プロ野球選手になると自分が成功するために、どうしても自分の事ばかり考えてしまう。しかし勝つ喜びはものすごくて言葉では言い表せない。みなさんも自分が活躍して優勝するんだという気持ちを持ってほしい。

 

 自分は「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手じゃない。こうやるしか思いつかなかった。それが「ユーティリティープレーヤー」「何でも屋」でそれでもこの世界で食っていける。「レギュラーになる、エースになる」だけではない。巨人の藤田宗一投手は中継ぎ登板だけで自分と同じ歳までやっている。それで飯が食える。それがプロ野球。「俺が一番うまい」と思って入団して、一番得意だった事がうまくいかない、それもプロ野球。その時にあきらめるのではなく、自分の話を思い出してほしい。投げ出す前に自分自身を知って可能性を探るのも必要ではないか。

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おしまい
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ありがとうございました。

-赤辞苑