72古葉竹識 [広島東洋カープOB]

古葉竹識 (こばたけし)

1936年4月生まれ。監督。右投げ右打ち。

1958年にカープ入団。熊本県立済々黌高校→専修大→日鉄二瀬。背番号29→1→71→72→81

選手として通算1369安打、263盗塁。盗塁王2回。

監督として通算勝873勝791敗、勝率.525。

カープ監督時代に限定すれば「711勝576敗、勝率.552」これを130試合換算すれば72勝58敗ペース。古葉野球は11年平均でも優勝争いペースでした。

もくじ
■耐えて勝つ
■お前が出てくるか俺がクビになるか
■江夏の21球
■ベンチの中で
■カープ退団後


 

耐えて勝つ

「本当に優勝したんですね・・・」

これは1975年10月、古葉監督が広島市民球場でカープファンに向かって実際に語った言葉です。当時の古葉監督は39歳でした。

後楽園球場で球団創設26年目の初優勝を決めた直後の市民球場最終戦。カープは創設25年でAクラス入りが1度だけというチームでした。

1972年、古葉監督は南海ホークスでコーチとなり、ドン=ブレイザーの野球を学びました。監督は野村克也でしたが、当の野村でさえ「ブレイザーに学んだ」と述懐しているほどです。

古葉監督は広島伝統の機動力野球とブレイザーの「考える野球」を取り入れ、カープの黄金期を築いていきます。

古葉監督の残した「耐えて勝つ」という言葉は何度も書籍化されています。

「耐えて勝つ」を私が解釈するところでは、選手に対する「厳しい練習に耐えて勝て」という意味と、「若手が育つまで耐えて待て」という自戒の意味の二通りがあると思うのです。

 

お前が出てくるか俺がクビになるか

古葉監督は猛練習で選手を育て、1軍で我慢して起用し続けました。

1978年、守備の下手な高橋慶彦に向かって、

「お前が出てくるか、俺がクビになるかだ」

と言い放ったのは有名な話。守備の名手・木下富雄を擁しながら、古葉監督は慶彦を1番ショートで我慢し続けました。慶彦は打率3割でその期待に応えました。

 

以後、ドラフト外の大野豊長嶋清幸を練習で鍛え、ドラフト1位の山崎隆造川口和久は試合で育てました。

2021年現在、多くのカープファンが「我慢して若手を起用しろ!」と望むのは古葉監督時代の成功体験によるものが大きいのです。

古葉監督は若い選手がエラーしても盗塁ミスしても怒りませんでした。古葉監督は自分のクビを賭けて選手を育て、守り続けたのです。

 

江夏の21球

ただしベテランには厳しいです。笑

1979年の日本シリーズ第7戦。抑えの江夏豊が無死満塁のピンチを招いた時、古葉監督はブルペンに池谷公二郎と北別府学を走らせました。江夏はそれを見て

「俺を信用できないのか!」

と古葉監督に怒りを覚えたそうです。それを衣笠祥雄がなだめたことで「江夏の21球」は劇的なフィナーレへ向かうこととなります。

後に古葉監督は「江夏を代える気はなかった。延長戦に備えるためだった」と弁解していましたが、実際のところは江夏を怒らせるためだったかもしれない。

 

1984年の大洋3連戦で3試合欠場させられた山本浩二も古葉監督に激怒しました。

古葉監督は「秋の勝負どころで浩二が必要だから」と弁解しましたが、浩二の怒りは収まりませんでした。

この後、浩二の打棒は復活。カープは3度目の日本一に輝きます。

1979年、衣笠祥雄は古葉監督にフルイニング出場をストップさせられて激怒しました。しかし最終的に世界記録を達成させてあげたのも古葉監督の功績です。

古葉監督は時に荒療治でベテランを刺激するのも上手かったのです。

 

ベンチの中で

語り草となった古葉監督がベンチの影に隠れてコソコソ試合を見ている様子。

後に古葉監督は「あの場所が一番グラウンド全体を広く見渡せるからだ」と弁解しました。

しかし私にはそうは思えない。だってあの場所からは絶対外野が見えないもん。笑

※参考記事:旧広島市民球場の思い出

古葉監督は自分の表情や攻撃のサインを相手ベンチに隠していたのかもしれない。あるいは自軍の選手の表情を常に監視するためだったりして・・・今となってはわかりませんね。笑

 

古葉監督のベンチ裏でコソコソを日本で最初にモノマネしたのは誰だったかなあ・・・

やくみつるではありません。やくみつるは元「はた山ハッチ」。大洋ファン。パロ野球ニュースは1986年スタートです。

古葉監督のモノマネを最初にやったのは確かお笑い芸人だったと思う。誰かは忘れました。全国放送でもけっこうウケてました。古葉監督の知名度は全国区だったのです。笑

 

古葉監督の温厚そうなイメージとは裏腹に、カープファンの間で古葉監督の鉄拳制裁を知らぬ者はいません。

試合中でも平気でベンチを蹴っ飛ばしていたそうです。

蹴っ飛ばし方はこうです。涼しい顔で選手に近付き、選手の後ろから足だけでベンチをゴン!と行くらしい。ソースは高橋慶彦か達川光男です。笑

 

カープ退団後

カープ退団後は1年間休んで、なぜか突然大洋ホエールズの監督に就任しました。これは驚いた。カープを勇退する時に「もう監督業に疲れた」とか何とか言っていたので。

大洋ではあまり輝けませんでした。「3番ポンセ、4番山崎、5番パチョレック」は意味不明な打順でした。

1988年に石井琢朗をドラフト外で獲得したのも古葉監督です。

1999年に野球殿堂入り。

その後なぜか広島市長選や参議院選挙に立候補し落選しました。当時はアントニオ猪木と江本孟紀が立ち上げたスポーツ平和党がブームだったので古葉監督も政界に憧れたのでしょうか。笑

2007年、71歳ながら東京国際大学の野球部監督に就任。伸び悩んでいた津田大毅を招き入れました。津田恒美の長男です。市民球場で始球式をしたあの子。津田恒美記念館を立ち上げたあの子。

古葉監督は東京国際大学という弱いチームでも「耐えて勝つ」を実践したそうです。2011年には大学野球選手権で全国ベスト4まで登り詰めました。

 

2021年11月12日に逝去。85歳でした。

古葉監督は1975年から1985年まで11年間カープの監督を務めました。幼い私に野球を教えてくれたのは高橋慶彦と古葉監督です。

私がいつもブログでああしろ、こうしろと書いている野球の理想像はいつも古葉野球なのです。

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おしまい
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ありがとうございました。

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