野村謙二郎(のむらけんじろう)
1966年生まれ。内野手。右投げ左打ち。
1988年ドラフト1位でカープ入団。佐伯鶴城高校→駒澤大学。背番号7
最多安打3回、盗塁王3回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞1回。プロ通算2020安打、250盗塁。
もくじ
■アマチュア時代
■左打ちのスピードスター
■打撃と守備
■ガッツマン
■短命
■監督として
アマチュア時代
野村謙二郎は佐伯鶴城高校出身ですが、実はお父さんも同じ佐伯鶴城高校野球部OB。
んで野村父の同期には元カープ監督の阿南準郎氏がいました。
野村謙二郎は中学2年の時、プロ野球のボールボーイを務めた経験があり、その時にカープの衣笠祥雄選手から「頑張れよ野球少年!」と声をかけられ感激したそうです。ソースは鯉のはなシアター。
高校時代はエースで3番。スイッチヒッターでキャプテン。甲子園経験はなし。
駒大時代は2学年上に新谷博(西武)、田村勤(阪神)がいました。2個下に関川(中日)、3個下に若田部(ダイエー)
野村は2年時からレギュラーとなり、亜細亜大の阿波野秀幸(近鉄)、与田剛(中日)、中央大の笘篠賢治(ヤクルト)らとしのぎを削る。
野村がマークしたシーズン18盗塁と通算52盗塁は2020年現在もなお東都大学リーグの最多記録です。
野村は大学4年時にソウル五輪で銀メダルを獲得。この時にメジャーリーグで活躍した隻腕投手ジム=アボットから右打席でライト線2塁打を打っています。
左打ちのスピードスター
そんな野村謙二郎は1988年に相思相愛だった広島カープからドラフト1位指名を受ける。
当時のカープのショートと言えば高橋慶彦(31歳)。
1988年のカープは歴史に残る貧打のシーズンで慶彦の成績も.238、11本、43打点でした。それでも慶彦は100試合以上で3番を打ち、32盗塁をマークしたバリバリの主力。
そこに22歳の即戦力ショートが入団。タイプも丸かぶりの盗塁王タイプ。慶彦の胸中やいかに・・・
野村謙二郎が入団した1989年は平成元年。
野村は開幕一軍を掴みますが、主戦場は「代走&守備固め要員」でした。ロデリック=アレンの代走からレフトに回るシーンが多かった。
1年目の打撃はまだ非力でしたが、評判のスピードは本物でした。代走メインで21盗塁をマーク。セリーグ5位。
この野村の台頭により現役引退を決意したのが代走王の今井譲二。そういや背番号7も小川達明から剥奪したものだったなあ・・・
いつだったか忘れましたが、市民球場の巨人戦で野村が代走で1塁に出て、巨人の投手が何度も牽制を投げてきた挙げ句、初球をウエストされたのに悠々と2塁セーフになったことがありました。
この時、捕手・山倉和博の呆然とした顔を見て
「ざまあ見ろ、こんにゃろう」
と言ったのは野村ではなく私でした。笑
1年目のある日、野村がふと左投手の時に左打席に入りました。
私は「あれ?スイッチなのにどうして?」と思いました。確かオープン戦では右でも打ってたような記憶があります。
野村はプロ1年目でスイッチを辞め、左打者に専念しました。左打席で左投手も打てたのでね。
打撃と守備
2年目の1990年は慶彦のトレードによって1番ショートのレギュラーに定着。
私は2年目の野村謙二郎が1番好きでした。
高橋慶彦が若返ったようなスピードと積極的な打撃。
よく見たヒットは「初球の高めストレートに、バットを上からかぶせてライト前。ミートポイントすごく前」
野村は「ミスター初球打ち」ですが、ツーストライク後は意外とファールで粘ることもできました。
1990年、野村は33個で盗塁王を獲得。最多三塁打(8個)、最多盗塁死(23個)、打率.287、16本塁打、13失策という成績も実に慶彦っぽい。笑
ちなみに野村がスタメンに定着したので、野村の代わりにアレンの代走として活躍したのが18歳の新人前田智徳でした。
野村は守備も慶彦に似てました。守備範囲は広いが、エラーのバリエーションも非常に豊富。
市民球場なのでエラーはどうしたって増えるんですが、野村はカープの歴代内野手の中でも特にスローイングが不安定でした。
後に解説者となった野村が、悪送球をした小園海斗のスローイングを注意したことがありますが、その時私は「お前が言うな!」と苦笑いでした。
3年目の1991年。
野村はプロでもキャプテンとしてリーグ優勝に貢献。歴史に残るグラウンドでのビールかけで乾杯の音頭を取ったのは25歳の野村でした。この年のMVPは親友の佐々岡。次点は野村。
1995年にNPB史上6人目のトリプルスリーを達成。
1997年にFA権を獲得するとメジャーリーグ球団から二塁手でのオファーが届くも、野村は固辞してカープ残留。後にイチローが「野村さんは僕より先にメジャーへ行くと思ってました」とコメントを残しました。
1998年には歴代4位のスピードで1500本安打を達成。野村は何でも速いんです。笑
ガッツマン
野村と言えばガッツマン。ガッツと言えば野村。
とにかく熱かった。全面に闘志をむき出す男。
相手チームにも向かって行きますが、印象に残ってるのはチームメイトに向かって行く熱さ。
チームメイトなら先輩後輩かまわず激を飛ばし、時にはノックを打つ大下コーチ(鬼軍曹)にさえ向かって行きました。←駒大の大先輩
野村のガッツはユニフォームの着こなしにも溢れていました。
1991年からオーバーストッキングを大きく見せるクラシックスタイルを導入。
これは草野球界でも大ブームとなり、全国の草野球選手がマネしました。←ひが調べ
もちろん私もその一人。91年は膝下までストッキングをむき出しにするスタイルで、92年あたりからは足首だけをむき出すスタイル。
その全てをマネし続けていた私は「大阪のノムケン」と呼ばれておりました。←半分実話
野村のガッツは後輩にも当然むき出しです。
駒大の後輩が野村の自宅を訪れ「カープに入りたいんです」と直訴すると野村はすぐに軍曹とオーナーに相談。
「あんなヘタクソが使いモンになるか!」
と一喝されるが、野村は食い下がる。
オーナーは野村の熱意に負け、ついにその大男をドラフト指名。その大男はご存じ新井貴浩であります。
短命
野村の全盛期は短かった。
慶彦もそうでしたが、野村も22歳から1番ショートで全試合出場。30代になるとケガが増えました。
1999年以降は1塁や3塁での出場が増えて盗塁数も一ケタ。かつて慶彦や今井を退団に追い込んだ野村が今度は反対に代走に福地寿樹やキムタクを送られる時代になりました。
特に2000本安打目前に迫った2003年と2004年の「7番野村、8番石原慶幸、9番投手」の三者凡退は酷かった。いったい何度見たことか・・・
9番が高橋建だったり、クリス=ブロックだったりすると9番打者のほうが野村&石原より期待できるくらいでした。
暗黒時代は黒田博樹しか勝ち星が計算できませんでしたが、黒田も「30打席連続無安打」だったりしたのでカープの攻撃は実質6人で戦っているような状態でした。これで2005年に最多勝を獲った黒田はかなりスゴかったのです。笑
2005年に2000本安打を達成した野村は同年に現役引退を表明。
引退試合は広島市民球場。当初は1~8回で8つのポジションを守ろうという構想もありましたが、結局普通に1番ショートで先発しました。
監督として
引退後の野村は日テレの解説者として活躍。巨人に優しいコメントに多少イラつきました。
受け答えの際には必ず「そうですね」から始める。これもかなりイラついた。笑
キャンプの時期になるとMLB球団の打撃コーチなどを務めヘンな自信を深めた野村。
後にブラッド=エルドレッドを見いだしたり、ジャスティン=ヒューバーやチャド=トレーシーという打者にこだわったりもしました。
ミコライオとサファテの騒動も野村監督時代です。
野村がカープの監督に就任したのは2010年シーズンから。
10月の監督就任会見では「優勝を目指す」と高らかに発言。
私は「野村なら本当にやれるかも」と大いに期待しましたが、12月には大黒柱のコルビー=ルイスがメジャー復帰を表明。
2010年は前田健太(22歳)が沢村賞もやっぱり5位。
2011年も5位。四番トレーシーとDH今村猛(19歳)。
2012年は4位。3年目の堂林翔太(20歳)が大ブレイク。期待を込めた全試合出場。
2013年は3位。球団16年ぶりAクラス。キクマルコンビ(23歳)でCS出場。ただし借金3での3位でした。
2014年も3位。この年は優勝争いをして堂々3位。貯金6。
2015年も野村監督だったならカープは優勝できてたかもしれませんが、野村監督は体調不良を理由に2014年に監督辞任。緒方孝市ヘッドコーチが新監督に就任しました。
私は高橋慶彦に憧れてカープファンになり、スイッチヒッターを練習しました。
んで、1990年に野村謙二郎に憧れて右投げ左打ちに転向しました。
ストッキングの件もチームメイトに笑われながら、野村が止めるまでずっと続けてました。
晩年の2000本安打狙いの野村優先起用には心底怒ってました。勝つ気ないのか、栗原を育てろ!と騒いでました。この無様な晩年がなければ私の好きな選手ランキングの歴代1位は野村でした。
監督時代も最初のうちは色々トラブルが多かったですが、3連覇チームの基礎を作ったのは間違いなくノムケンです。
再登板はあるのかな・・・
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