今井譲二 (いまいじょうじ)
1956年生まれ。代走。
1978年ドラフト外でカープ入団。鎮西高校→中央大。背番号60→36
通算263試合、27打数5安打、盗塁62、得点83
もくじ
■代走今井
■美しい走塁
■日本シリーズ第8戦
■今井がカープに残したもの
■引退後
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代走今井
今井譲二の生涯記録を見ればわかる通り、今井は代走専門の選手でした。
入団して3年間は二軍でもそれほど盗塁していませんでした。7盗塁、3盗塁、3盗塁。ソースはこちら
プロ4年目の1982年に二軍で打率.323を記録し一軍デビュー。このあたりから今井は盗塁のコツを掴んだと思われます。
5年目の1983年に背番号36となり、開幕一軍こそ逃すものの6月に一軍昇格。
プロ初盗塁は6月8日の中日戦。投手小松辰雄(24歳)、捕手は元広島の水沼四郎(36歳)でした。
この年、今井は三塁で先発出場したりしてまだ代走専門ではありませんでした。まだグローブとバットを持って試合に参加していました。
代走屋として完全に花開いたのは1984年。
52試合に出場し6打数1安打、15盗塁で26得点です。笑うしかない快記録。
52試合で26得点です。2回に1回はホームイン。※参考記事:カープの得点王
この頃から今井はバットとグローブを捨てたと言われ始めます。笑
打席に立たないのはもちろん、守備にもつかない代走今井。
今井は大量点差の時は試合に出してもらえませんでした。
古葉監督いわく
「もし今井を使った後で試合がもつれたらどうするんだ!?」
とのこと。絶大な信頼でした。
この頃のカープは俊足選手が揃っており出番は少なそうなものですが、130試合の半分近くに代走として出場しています。
美しい走塁
代走今井はヘルメットをかぶっていませんでした。帽子でした。これがまたカッコいいんですよ。←現在は禁止。代走もヘルメット着用義務化
慶彦や木下も出塁するとヘルメット脱いでお尻から帽子を取り出してかぶっていました。その方が速く走れるのかしら?
とにかく今井は帽子。これは死んでも忘れない。だって超カッコ良かったんだもん。
まずリードが広い。
慶彦も今井もアンツーカーから両足が出るほどリードします。
慶彦は地面の土を蹴散らして走りましたが、今井は軽やかに跳ぶような走り方でした。んで盗塁の時は必ずヘッドスライディングでした。
実は盗塁のできない「3塁走者の代走」に出ることも多かったです。内野ゴロや浅いタッチアップでよくホームインしていた記憶があります。
んで私がハッキリ記憶しているのは今井譲二が山崎隆造の代走に出たこと。たぶん1988年の阪神戦。サンテレビで見てました。
山崎は毎年高橋慶彦に次ぐチーム2位の30盗塁をマークしている選手。その山崎に代走今井。これはかなりビックリしました。
まあ山崎の走力がAで今井がSだからわからんでもないけど。笑
記憶にあるのはこの1回だけ。
ウィキペディアには「慶彦の代走に出たこともある」と書いてありますが、これはたぶん間違いだと思います。
今井の全盛時、慶彦は毎年70盗塁をしていました。
それに慶彦に代走を出したらもっとニュースになっていて私の耳にも入っていたはず。
慶彦の晩年なら今井も晩年。二人は同い年です。
日本シリーズ第8戦
今井は1984年と1986年の日本シリーズにも当然「切り札」として出場しています。
1986年のvs西武第8戦。
6回表に6番秋山(24)にバク転ツーランを打たれて2対2。同点。
8回表2死から1塁走者のベテラン太田(35)がまさかの盗塁。7番ブコビッチ(30)が勝ち越しタイムリー。2対3。
1点勝ち越した西武は8回裏にピッチャー工藤公康(23)を投入。
カープ先頭の達川(31)が四球で出塁すると阿南監督(49)はもちろん切り札・代走今井(29)。
私は「走れ!」と思いましたが手堅く代打木下(35)で送りバント。1番慶彦(29)も四球で1死12塁。
同点の走者が今井で逆転の走者が慶彦。打席は2番の山崎隆造(28)。工藤の顔面は蒼白。
山崎の打球は良い当たりのセンターライナー。センターは田尾安志(32)。秋山はまだ三塁を守っていました。
そんなにきわどい打球ではありませんでしたが同点走者今井は2塁を飛び出していて戻れずゲッツー。
山崎の右打席のセンター前は伸びるんですよ。左打席ならドライブがかかるんですが。スタメンでコンビを組んでいる慶彦なら知っていたと思います。ここが代走の難しさか・・・
8回裏終了。工藤公康にまた笑われた。チクショウ、クソガキめ。清原(19)ならまだしもあんな小僧に2回も笑われるなんて・・・
しかし代走今井より良い走者はカープにはいない。
9回裏のカープは三者凡退。日本シリーズ3連勝&4連敗。工藤万歳。浩二引退。
今井は第5戦でも本塁憤死して延長に突入。12回に津田(26)が工藤にサヨナラヒットを打たれたのです。
今井がカープに残したもの
今井は1987年以降も順調に盗塁と得点を重ね、カープに勝利をもたらしてくれました。
ところが平成元年の1989年。
新監督山本浩二(42)は代走今井(32)を開幕一軍メンバーから外しました。
今井の代わりに開幕一軍切符を掴んだのが黄金ルーキー野村謙二郎(22)。
山本浩二監督の最初の仕事がノムケンの育成と、代走今井を引退させたことでした。
野村はオープン戦から盗塁しまくっていました。残酷なほど速かったです。
22歳の野村は32歳の慶彦と今井より速かった。代走メインで21盗塁をマークしました。
このオフに今井は引退し、慶彦はロッテへトレード。
山本浩二は今井に花道を用意しました。
1989年10月。カープの残り試合が数試合になった時、ここまで一度も一軍に呼ばれなかった今井が一軍昇格。
慶彦のトレードは突然でしたが、今井の引退は丁寧でした。
広島市民球場での中日戦ではライトを守り、大洋戦では代走の後でセンターに入りなんと8回裏には打席まで回ってきました。
私はこの試合をテレビで見ることができませんでした。関西なので大洋や中日との試合を見ることができません。
試合後のセレモニーはプロ野球ニュースで5秒ほど流れましたかね。代走屋の引退セレモニーが全国ネットですよ。凄いんですよ、今井譲二は。
今井譲二の登場以降、カープの若手には内野手、外野手の他に「代走屋」というポジションが追加されました。
そのポジションを掴んで飛躍したのが野村謙二郎、緒方孝市、福地寿樹、赤松真人など。岡上和典にも夢を見ました。
コイツらみんな今井の後輩。※参考記事:カープ代走屋の歴史
今井譲二がカープに残した教えがこれ。
「代走に出たら一球目にスタートを切れ!」
これができるようになれば盗塁王なんていつでも獲れます。聞いてんのか、野間峻祥。
今井は投手のクセだけじゃなく、捕手のクセまで研究していたそうです。捕手の右手の動き方で球種がストレートかカーブか見抜けたそうです。
引退後
引退後は実家熊本の魚屋さんに就職。これもプロ野球ニュースで流れたネタ。阪神ファンの同級生に「小早川の赤痢」と「今井の魚屋」はよく笑われたものです。
実は魚屋さんは今井のご実家だそうです。
プロ野球選手が引退後にサラリーマンになることは今じゃ常識ですけど、当時子供だった私は野球選手って引退したらみんな解説者かコーチになるもんだと思ってました。だから「あの俊足今井が魚屋に転身」はかなりインパクト大でした。
んでたけし軍団の盗塁王・井手らっきょと一緒に熊本で少年野球スクールを開校します。井手らっきょも熊本なんだ・・・知りませんでした。
井出らっきょも速かった。100m11秒台でフローレンス=ジョイナーに勝ったこともあります。
そのらっきょと今井の教え子には阪神の岩貞祐太やヤクルトの村上宗隆がいるそうです。
2020年のドラフト会議では大学の後輩・五十幡亮汰君が日本ハムから指名を受けました。彼はサニ=ブラウンに勝った男です。今井譲二のことを知ってますかねえ・・・笑
この子らの年齢じゃ「今井さんって外野手なんですね」とか思ってそうですが、今井の守備位置は「代走」です。
球場にグローブなんか持っていきませんよ。笑