正田耕三(しょうだこうぞう)
1962年1月生まれ。二塁手。右投げ両打ち。
1984年ドラフト2位でカープ入団。新日鉄広畑。背番号4
プロ通算1546安打。通算打率.287。首位打者2回。盗塁王1回
もくじ
■栄光のアマチュア時代
■2年連続の首位打者
■1試合6盗塁で盗塁王
■練習の虫
■正田の打撃
■引退の美学
■名コーチ
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
■栄光のアマチュア時代
正田は和歌山県の蕎麦屋の出身。立ち食いそばではなくて有名な高級蕎麦屋さん。
名門の市立和歌山商業で1年生からレギュラー。
1980年に社会人野球の名門新日鉄広畑に入社。
1984年のロサンゼルスオリンピックに1番2塁で出場し金メダル獲得。
同年秋のドラフト会議でカープが2位指名。背番号は4。
高校、社会人を通じて発揮してきた強いキャプテンシーで、後に第4代NPB選手会の選手会長を務めることになります。
■2年連続の首位打者
1年目は右打ちでしたが、オフに古葉監督の得意ワザ「スイッチヒッター転向指令」が炸裂。笑
これにより1987年途中から
1番山崎隆造(29歳)
2番正田耕三(25歳)
3番高橋慶彦(30歳)
というスイッチヒッター打線が完成。
正田は3年目の1987年に初の首位打者を獲得。
先に打率.333でシーズンを終えていたG篠塚利夫に並んだヒットはセーフティーバント。
投手のすぐ横に強めのプッシュバント。
投手1塁手2塁手の3人全員が正田の打球を追ってしまい、1塁ベースは無人。
正田悠々セーフで打率.333。篠塚と同率で首位打者を決定づけた瞬間でした。
正田は2リーグ制後初の「本塁打0本の首位打者」であり、NPB史上初の「スイッチヒッターの首位打者」でもありました。
翌1988年も猛練習で打撃を磨き上げ、チーム全体が低調な中で一人打率.340と気を吐き、2年連続の首位打者獲得。
初めて東京ドームで開催されたオールスターゲーム第3戦。
正田は途中出場で2打数2安打。迎えた第3打席は延長12回裏。
先頭打者で右中間を深々と破る3ベースヒット。
当時は広かった東京ドーム。
打者は本塁打ゼロの正田。
外野は浅めの守備位置。その右中間を転々と転がり、正田はスタンディングトリプル!
テレビの前の私は「まわれまわれ!4つ行け!」と興奮するも、正田はおとなしく3塁ストップ。
野手を使い切っていたセリーグの王監督は続く投手の打席に代打水野雄仁を送る。
水野サヨナラ犠牲フライ。
正田MVP。
正田は本塁打ゼロのイメージが強いのですが、実働14年間で通算44本塁打。
意外に打っているんです。
同じ時代にチームメイトだった代打男の西田真二。
彼も通算44本塁打。
■1試合6盗塁で盗塁王
1989年は打率.323で3位に終わるが、初の盗塁王を獲得。
128試合終了時、正田は28個。ヤクルトのルーキー笘篠賢治は32個。
正田は129試合目の中日戦1試合で6個走ります。笑
若手捕手の山崎武司(20歳)が正田に5個連続で盗塁を許す大失態。
怒りに燃えた星野監督は捕手を正捕手の中村武志に交代。
正田はしかし中村からも2盗を成功させプロ野球タイ記録の6個目。
こうなると新記録の7個目も狙いたい。続けざまに3盗するとさすがにウエストされて楽々アウト。
正田は34個で盗塁王を獲得。
山崎武司は捕手をクビになり、結果、通算403発の長距離打者として開花します。
■練習の虫
練習の厳しいカープの中でも歴代トップの練習の虫なのが正田その人。
ケガしてても練習するので監督コーチが止めることもしばしば。
応援歌は「土にまみれて戦え勇ましく」
正田のユニフォームはいつも泥だらけでした。
1993年は右手首の故障で左打ちを封印。
ケガを理由に休むことなく右打席だけで試合に出続けました。
正田のその姿を見ていた90年代の若手たちが野村謙二郎、江藤智、金本知憲、緒方孝市、前田智徳ら。
カープの伝統は脈々と受け継がれていくのでした。
■正田の打撃
こけしのようなグリップのバットを使用。
左右どちらの打席でもインコースを片手を放して引っ張るイメージ。
アウトコースは両手でしっかり振って流し打つイメージです。
正田のインタビューで驚いたのは「わざと詰まらせることがある」と発言したこと。
当時の私には初めて聞く概念でした。
詰まらされたり差し込まれたり時に、内野と外野の間に落ちるようなスイングを心がけているみたいなコメントに驚きました。
その後、見ていると確かに正田の打球は詰まっても内野の頭を越していました。
今となっては常識的な技術もしれないですが、30年も前にこんなことを考えていたんですね。正田。
実は正田は四球と打点が少なかったです。
1番2番を打つ走り打ちの非力な打者なので投手はどんどんストライクを投げてきます。
正田は実際単打が多く、長打は少ない選手でした。
セーフティーバントは得意だが送りバントもちょっぴり苦手で、山崎隆造の安定感には全く及びませんでした。
よって1番正田、2番山崎がベストなオーダーだったんですが、ノムケン、前田の台頭で正田はまた2番に戻ります。
送りバントの打席はハラハラしてました。
「じゃあいつもセーフティーバントすればいいのに」と思いながら。笑
■引退の美学
1998年シーズンは規定打席に到達して打率.274。年齢は36歳。
しかし正田はシーズン途中に現役引退を表明。
守備が衰えた、足が衰えたと、いかにもカープらしい名言を残して引退。
正田引退後の二塁には近畿大学のルーキーが座る予定でしたが、いろいろあって1999年の2塁手はペルドモとディアスで開幕しました。苦笑
■名コーチ
現役引退直後の1999年はカープで守備走塁コーチを1年だけ務めます。
正田の本領発揮はカープ退団後。打撃コーチとして。
まずは梨田真弓小林のイケメン近鉄にこっそり混ざる。
2001年には正田の教え子北川博敏が優勝決定代打逆転サヨナラ満塁ホームラン。
阪神では岡田監督のもと、鳥谷敬を育てて2005年またも優勝。
後に岡田監督のオリックスでもT-岡田を本塁打王に導く。
2015年から韓国リーグで打撃コーチ。2017年はウェイン=ロサリオを育ててまた優勝。
正田は何年も韓国にいるが「韓国語を覚えなくても困らない」とラジオで言ってました。
■選手名鑑もくじへ