ティム=アイルランド
1953年3月生まれ。内野手。右投げ右打ち。
1983年カープ入団。背番号4
デーブ=レーシッチ
1951年生まれ。投手。左投げ左打ち。
1984年カープ入団。実は球団史上初の外国人投手。背番号44
もくじ
■1982年オフ、水谷とライトルが退団。浩二はコンバート
■1984日本シリーズは純血打線
■アイルランドの隠し球と応援歌
■レーシッチはDゲーリーの兄
1982年、カープは2年連続V逸で激動のオフの迎えました。
功労者のジム=ライトル(36歳)と長距離砲アーサー=ガードナー(30歳)の両外国人を解雇。
水谷実雄(35歳)は阪急へトレード。
山本浩二(36歳)は慣れ親しんだセンターからレフトにコンバート。
背番号4、5、6とセンター・ライトのポジションが空きました。
当時の外国人枠は2人。
カープは2人の外国人を解雇して、長距離砲の外野手レスリー=フィルキンス(26歳)と小技の内野手アイルランド(29歳)を獲得。
古葉監督は2塁手だった山崎隆造(24歳)を外野にhttp://アイルランドコンバートし、若手外野手・長嶋清幸(21歳)の背番号を0番に変更。
この頃の木下富雄は31歳。三村敏之は34歳でほぼ代打専任でした。
そうして2年連続日本一のチームをガラリと若返らせた1983年カープ。
開幕戦のオーダーは
1番高橋6、2番山崎8、3番加藤3、4番山本7、5番衣笠5、6番長嶋9、7番アイルランド4、8番達川2、9番北別府1
でした。
■1984日本シリーズは純血打線
1983年はカープ2位。浩二本塁打王。
1983年オフにフィルキンスを解雇。
左サイドハンドのリリーフ投手レーシッチ(32歳)を獲得。
当時は2人しか一軍登録できなかった外国人枠が「7番打者と左のワンポイント」ってかなり先駆的でした。笑
1984年の巨人は3番クロマティ、4番原、5番スミスでした。これが普通。
カープは7番2塁アイルランド。
ガッツはありましたけどありすぎて骨折。
1984年の日本シリーズは7番セカンド木下で7試合を戦いました。
調子に乗ったカープは1985年も86年も純血打線で戦います。外国人の獲得はナシ。笑
んで86年もちゃんと優勝します。よほど貧乏だったのか、よほど自信があったのか・・・
■アイルランドの隠し球
アイルランドは1983~84年の2年間在籍。
ガッツだけのイメージですが、1年目はけっこう打っていてビックリします。
95試合で打率.293、12本、44打点。全然そんな印象がない。笑
アイルランドと言えば隠し球とヘッドスライディングと半袖と応援歌。
アイルランドの隠し球は「相手走者にグラブの中を見せる」ことがポイントでした。
時にはグラブの外側にボールを隠していたり、脇の下にボールを挟んでいたり。
さりげなくグラブの中をランナーに見せるのが巧かった。笑
グラブの中にボールがないので、そりゃランナーも間違いますよ。
隠し球をするためにアンダーシャツを着なかったのだろうか?
手品師みたいに手首に隠していないよとアピールするために。笑
アイルランドは1983年の1年間で3回も隠し球を成功させたそうです。
応援歌は「ふたりの愛ランド」。チャゲ&優子
もともとワンポイント投手として獲得したわけではなく、先発に転向する大野豊に変わるストッパーという触れ込みでした。
サイドハンドって言うよりスリークォーターだったかな?
「七色の変化球を持つ」とかなんとか言われていたが、七色どれもストライクが入らず、シーズン序盤にすぐ1軍からいなくなりました。笑
そんなレーシッチの名前が3年ぶりに聞こえてきたのは1986年。
中日が獲得した大型内野手ゲーリーが元広島レーシッチの弟だと話題になりました。
中日のゲーリーは3年間活躍しました。3番ゲーリー、4番落合、5番宇野。
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