もしも新井貴浩がドラフト指名されていなかったら[後編]

この物語はフィクションです。管理人の妄想100%のウソ記事です。
どうぞ暖かい目で見てください。よろしくどうぞ。

前編からの続きです。

1999年1月
新井貴浩の指名漏れから2ヶ月後、NTT関西野球部(大阪)は名称を「NTT西日本硬式野球部」と改称し、野球部をNTT関西、東海、北陸、中国、四国、九州らと統合することを発表。
NTT中国からも主力選手が西日本(大阪)へ移籍した。
まだ大学生4年生で内定者扱いに過ぎなかった新井貴浩は予定通りNTT西日本・中国支店に入社。
NTT中国の硬式野球部は廃部こそ免れたものの、会社からの支援のないクラブチームとして活動を継続することとなる。
社会人野球に進んだ新井貴浩はこのクラブチームで2年後のドラフト指名を待つことになった。

10年前のNTT中国は佐々岡真司を擁する強豪チームだったが、クラブチームとなったことで選手環境はいっぺんに苦しくなった。
通常、強豪チームの選手たちは1日2時間程度出社すれば残りの時間は野球に専念できる。
だがクラブチームの選手たちはそうではなかった。
一般のサラリーマンと同じく平日9時~5時まで毎日出社せねばならず、野球の練習は午後7時30分から2時間程度行われるだけだった。それも週3日。
土曜日は練習で日曜日は休み。ハードな環境であった。
新井の立場はNTT西日本・中国支店の営業マン。
業務終了後にクラブチームで練習するという形となる。
厳しい環境の中、退部していく選手も多く、サポートするべきチームスタッフも選手たちが兼任するほかなかった。

ルーキーの新井は率先して練習試合の相手を探したりボールを磨いたり、練習以外でも一生懸命雑用をこなしていた。
遠征費用も自腹。公式戦の時だけはNTTから「出張旅費」が下りたが、練習試合の場合は自腹。
新幹線には乗れないので、新井貴浩もマイクロバスの運転免許を取得してチームの交通費を節約した。

練習メニューは監督が考えた。
幸い、広島市安佐北区の専用グラウンドにはナイター設備があったため、雨の日以外は練習場所に困ることはなかった。


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新井貴浩はそんな環境で2年を過ごすも、試合では持ち前の長打力を発揮した。
が、チームは好成績を残すことができず、新井貴浩は全国大会とは無縁の2年間を過ごした。
新井貴浩の2年間の通算成績は打率.236、16本塁打、34打点というものだった。

そして運命のドラフト会議当日を迎えた。

2000年11月17日(金)午後2時
NTT西日本広島支店・営業3課

課長
もしもし。新井か。今どこだ!?

新井
いま広ガスさんを出たところです。
この後はゆめタウンさんに寄ります。

課長
ばか!
仕事はええけえ、2時までに戻れと言ったじゃろ。

新井
しかし課長、ゆめタウンさんのフレッツ・アイの案件は今非常にですね・・・

課長
そんなことはええ!
今日はお前のドラフト会議の日じゃろうが。
かまわんけえ、今日だけは早う帰って来い。いいな! ガチャ

テレビ
第1巡選択希望選手・・・阪神・・・
藤田太陽、21歳、投手、川崎製鉄千葉

課長
ほら始まったじゃないか。

テレビ
第1巡選択希望選手・・・読売、
阿部慎之助、22歳、捕手、中央大学

課長
こりゃ確かに下位指名までは見る必要はなかったかもしれんの。
逆指名、逆指名で1位の競合はなしか・・・

2時間後・・・

テレビ
第7巡選択希望選手・・・広島東洋、
岡上和典、21歳、内野手、東海大学

課長
あちゃー、まだ呼ばれんのう。
はあ7巡目まできてしもうたぞ。
新井のやつ、テレビを見ないつもりか。
ドラフト会議が終わってしまうぞ。

テレビ
第8巡選択希望選手・・・
日本ハム・・・
選択終了。

課長
やや。もうどこの球団も指名が終わってきたぞ。
やっぱり新井は無理なんかのう・・・

テレビ
第8巡選択希望選手・・・
広島東洋・・・

課長
ゴクリ・・・

おしまい
続きはご想像にお任せします。