紅葉シーズンたけなわでございまして、今や日本全国あちこちで「夜の紅葉ライトアップ」なるイベントがすっかり定着しました。
んで私はこれを今から静かに全否定いたします。ディスります。
私はチャラチャラした観光客向けイベントが大ッキライなのです。
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向日葵と月見草
「ONがヒマワリなら、ワシは野に咲く月見草や・・・」
この有名なセリフ、実は試合後のヒーローインタビューで語られたもの。実はかなり端折られています。
時は1975年5月22日(木)の日本ハム戦。場所は後楽園球場。前節5月18日(日)の後楽園で開催された「巨人vs阪神戦」の観客数は50,000人。長嶋茂雄新監督の人気は絶大でした。野村克也が史上2人目の通算600号という大記録を打ち立てた後楽園は観客7,000人でした。
2年前の1973年、38歳だった野村克也は33歳の王貞治と激しく本塁打王を争っていました。
セとパで本塁打王争い?
この頃、超偉大な両雄は1年だけの本塁打王ではなく通算最多本塁打数を争っていたのです。
1965年、30歳の野村克也(南海)が山内一弘(阪神)の通算本塁打数を抜き、トップに立ちました。セリーグでは24歳の王貞治が1964年に55本塁打を放ち、野村を猛追します。
1973年、38歳の野村は選手兼任監督でパリーグ優勝を果たしますが、この年野村は通算本塁打数で33歳の王貞治に逆転を許します。通算567号。
1974年、長嶋茂雄が引退。「わが巨人軍は永久に不滅です!」からの新監督就任。王貞治は2年連続三冠王。
1975年、赤ヘル旋風。三冠王も通算本塁打数も、自身の日本記録を全て王に塗り替えられた40歳の野村克也。
公表7,000人も実数は2,000人程の敵地で、40歳の野村克也はヒーローインタビューを受けたのです。
アナ「通算600号本塁打おめでとうございます。史上2位の大記録です」
野村「自分をこれまで支えてきたのは王や長嶋の存在です。彼らは常に人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしましたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もあるのです」
金閣と銀閣
紅葉のライトアップで知られるのは京都。
ことある毎に書いてますが、私は京都も大キライです。チャラチャラしてるからです。
古い建物はリスペクトしています。その周辺にある商魂こめた土産店と自撮り棒を振り回すアホの観光客が大キライ。近づきたくもない。
私は夜にひっそりと咲く月見草を見たい人です。
行列に並んで他人と同じアングルの写真など撮りたくありません。
観光客と巨人が高額年俸選手を買い漁っている時、私は鞘師や田村が連れて来たドラフト5位の子を応援したいのです。
500年前、京都に金閣寺と銀閣寺というお寺が建てられました。
金ぴかの金閣寺に対し、後発の銀閣寺は「わびさび」をコンセプトにして建設されました。
「侘び寂び」は令和の今日、英語でも「Wabi」「Sabi」として知られる日本の心。
足利義政が建てた質素な草庵で村田珠光が茶を点て、その心が武野紹鴎、千利休へと受け継がれてゆきました。←諸説あります
「侘び」も「寂び」も昔から存在した日本語で、室町時代の庶民なら誰でも理解できる言葉でした。平安時代の枕草子などで「いとあはれ」みたいに登場する心が侘び寂びの世界。
足利義政は薄汚い政治と欲深き戦争に疲れ、文化と芸術の世界でその実力を発揮しました。
現在も普通に使われている「和室」を作ったのは足利義政の東山文化だと言われています。
私の家に部屋は4つありますが、和室は1つだけ。私が使用しています。子供たちはベッドです。
私は毎晩布団を敷き、毎朝布団を上げます。すると部屋が広くなります。これが嬉しいのです。ちゃぶ台の足を立て、ノートパソコンを広げて毎朝ブログを書いています。
私も紅葉を美しいと感じます。
だが夜のライトアップと、その周りでざわめく観光客にはうんざりします。紅葉も気の毒だと感じます。
私が若い頃は、よく山の上から夜景を見たものですが、あれは人工物のようでも自然の営みでもあります。美しいと思います。
私が嫌いなのは人工的なライトアップと夏の花火大会です。
「さあオレを見ろ!」っていう尊大な態度が金閣寺で巨人軍みたいだからです。