フランチェスコ=トッティvs中田英寿のライバル関係

昔、私はプロ野球のオフシーズンに「妄想対談シリーズ」を書いていて、お亡くなりになった木村拓也さんと木村昇悟さんのユーティリティー対談とか、高橋慶彦vs野村謙二郎の日本一のショートは誰だ対談みたいな記事を書いたことがあります。

ところが最近はYoutubeの普及で妄想対談が妄想じゃなく、現実に実現するようになって少しやりにくくなってきました。笑

慶彦vs謙二郎なんて当時バリバリのライバル関係だったと思うんですよ。そこで慶彦の電撃トレードからカープ優勝。ビールかけの音頭をとったのが25歳の若き野村謙二郎でした。

サッカー界ではイタリア・セリエAのトッティvs中田英寿のエース争いがたいへん印象深かった。

ローマ生え抜きのトッティと若き東洋人・中田英寿のエース争い。ポジションは一つだけ。

そんな二人が1ヶ月前にDAZNの企画で22年ぶりに対談しました。これは要チェックですぞ。

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フランチェスコ=トッティ

トッティは1976年生まれ。ASローマ所属。

トッティはローマ生まれのローマの選手。

12歳でローマユースに入団し、40歳で引退するまで28年間ローマ一筋で過ごしました。

サッカー界ではトッティのようなエース級の選手が一つのクラブでサッカー人生を終えることは極めて珍しい。ましてや「出身地のチームで20年」となると尚更であります。

トッティは現役生活20年間、ほぼずっと左腕にキャプテンマークを巻いていました。

偉大なるローマの王子。それがフランチェスコ=トッティでした。

 

トッティが22歳でローマのキャプテンとなり迎えた1999年シーズン。

ペルージャで大活躍した同い年の日本人、中田英寿がローマに入団します。

私はこの時、

「焦ったな、中田・・・」

と臍を噛みました。ほぞをかむ。

 

22歳の中田は焦っていました。中田は早くビッグクラブに移籍したかったが、ペルージャはなかなか中田を手放しませんでした。

どういういきさつだったか詳しく覚えてませんが、とにかくトッティのいるローマに行ったって試合には出られないだろ!というのが大方の予想でした。

私個人は中田の方がトッティよりフィジカルが強く走れる選手なので中田を使うべきだという考えでしたが、なにしろフランチャイズプレーヤーのトッティをスタメンから外すということは当時のローマでは考えられないことでした。

この状況を2023年のプロ野球に例えるならば、岡本和真のいるチームに村上宗隆をかぶせるようなものでしょうか。いやもっとあり得ないくらいの挑戦でした。

長嶋茂雄のポジションに衣笠祥雄をぶつけるようなものと言った方がいいかもしれません。それくらいかぶるんですよ、トッティと中田は。

 

中田がいくら活躍してもスタメンはトッティ。決定事項。

トッティが休む時に中田がちょいちょい出て大活躍。でも次節のスタメンはやっぱりトッティなんですよ。

なんで中田がローマを選んだかというと、もう忘れたけどユベントスにはジダンがいたし、フィオレンティーナにはルイ=コスタがいました。

ミラン、インテル、パルマなどは10番が空いていました。なんでローマに行ったのか今でも私は理解できません。中田が自信家だったのか、代理人がドジだったのか。

 

とにかく中田はトッティがケガした時だけ大活躍してローマを2年で去りました。

当時は中田とトッティの不仲説も囁かれ、私も中田とトッティが会話してる姿を見たことありませんでした。

中田も日本人らしからぬ日本人だったことをご記憶かと思います。周囲に全く迎合しないし、オレ流のマイペース調整。

トッティはトッティで非常に「10番らしい10番」でした。

当時の10番は守備をせず、ボールを持ってから前を向く10番がほとんどでした。

 

中田英寿以後、セリエAにはボールを持つ前に前を向く10番が増えました。

攻撃の選手が味方のパスを受けてから前を向くと、当時全盛だったゾーンプレスという相手守備に潰されます。

だから中田やジダンはパスを受ける前に前を向いたり、前を向きながらパスを受けることでプレスをかいくぐっていました。

この一点からも中田はトッティより優れた10番だと私は見ていましたが、ローマっ子にそんな理屈は通じません。巨人の衣笠がいくらホームランを打っても巨人のサードは長嶋茂雄に決まっているのです。

 

中田英寿は2年でローマを去りましたが、2001年のリーグ優勝を決める試合で決定的なゴールを挙げ、現在でもローマっ子に愛されています。

中田は2001年にイタリア北部のパルマに移籍します。もし中田がローマを経ず1999年にパルマに移籍していたらもっと大成功してたんじゃないかと思います。今となってはわかりませんけど。

中田はパルマであまり機能せず、またすぐにイギリスへ行ったりペルージャに戻ったりしましたが、2006年ドイツワールドカップを最後に29歳の若さで現役を引退しました。

このドイツワールドカップで優勝したのがトッティ率いるイタリア代表です。

 

ライバル関係

トッティは2017年、40歳まで現役生活を全うしました。ローマ一筋20年。

エースの道を歩み始めたばかりのトッティにとって、サッカー後進国の日本人選手など最初は眼中になかったと思います。ポジションを奪われるなど微塵も思ってなかったことでしょう。

トッティはローマを愛していたし、ローマから愛されてもいました。「ナカタは別のポジションでもやっとけ!」という気持ちだったのではないでしょうか。

 

一方の中田はどう考えていたのか?

トッティのポジションは当時の言葉で言う「トップ下」。攻撃的ミッドフィルダーのこと。トップ下は通常1つのチームに1つしかありません。

日本代表でもこの「トップ下」を巡って中村俊輔が代表から漏れたり、小野伸二がディフェンシブハーフに入ったりしてました。トップ下は中田英寿のものだったからです。

聡明な中田のことですからトッティをベンチに押しやることはできないと悟っていたでしょう。

中田は自分がトップ下に入り、トッティを「トップ」のポジションに押しやろうと考えたのかもしれません。

 

とにかく同じポジションで同じタイプの同じ年齢の二人が2年間バチバチのライバル関係にあったわけです。しかもイタリア最高レベルのトップ下が二人。

結局競争に勝ったのはローマっ子のトッティ。

東洋人の中田はローマを去りました。中田には「外国人枠」との争いもありました。バティストゥータ、カフー、ワルター=サムエルなどもライバルでした。

 

旧友

現役時代はバチバチでも引退すれば苦楽をともにした旧友。

北別府学と高橋慶彦もお互いを嫌い合ってたわけではありません。チームを強くするための意見が対立していただけ。

トッティは下の動画の中で「中田とはずっといい関係だった」と発言していますが、私はこれは

絶対ウソだ

と思います。

これからチームのエースになろうとしている22歳のトッティにとって、ワンタッチで前を向く中田英寿の存在は絶対に脅威だったはずです。

トッティは「俺のポジションにヤバいヤツが来た・・・」と焦っていたと思います。

 

動画のトッティは引退してダンディなおじさんになっていますが、現役時代はそうとうワガママでしたからねえ。笑

トッティは良くも悪くも10番らしい10番。

昔の守備をしない10番で、足下にボールを持ってからプレーを始めるクラシカルな10番でした。

トッティに無い物を中田は色々持っていました。

 

こういう前置きを知ってDAZNの対談を見ていただくとより楽しめるんじゃないかなあ、と思ってこの記事を書きました。

ややこしいだけかなあ。笑

 

王子様のトッティとクールな若者だった中田英寿が

「最近のサッカーはつまんなくなった」

とおじん臭いことを言ってる点もたいへん興味深い。笑

野球にも通じるところがありますねえ。