最近何かと デッドボール の話題が多いですよね。
そこで本日は 危険球退場の歴史 について詳しく解説します。どうぞよろしくお願いします。
目次 長嶋巨人と野村ヤクルト
1993年のデーブ骨折事件
1993年の富山の乱
1994年の五・一一事件
長嶋監督の「目には目を」発言
広島カープの危険球
長嶋巨人と野村ヤクルト
オールドファンにはおなじみですが、2026年現在の危険球退場の起源は
長嶋巨人 と 野村ヤクルト にあります。一般常識
主な登場人物は
古田敦也
と
西村龍次
もう既にきな臭い。笑
巨人サイドの重要人物は
ダン=グラッデン や 大久保博元 など。のちのデーブ大久保である。
よく勘違いされているが、バルビーノ=ガルベス の入団はもう少し後なので、ガルベスと危険球退場は無関係です。
西村龍次は1990年のドラフト1位。同じ年の2位が古田敦也でした。
西村は1991年から1993年まで10勝→15勝→14勝とエースの活躍。
古田も首位打者→30発→リーグ2連覇でセリーグの顔。のび太君からスーパースターへ成長しました。
野村克也は就任4年目、前年の覇者。
長嶋茂雄は第二次政権の1年目でした。
世間はサッカーJリーグの誕生に沸き、ドーハの悲劇は1993年10月に起こります。
このような時代に「事件」は起きました。
【1】デーブ骨折事件
まず1993年5月27日の「デーブ大久保・骨折事件」
この試合、先発の荒木大輔がまず四番の原辰徳にデッドボールをぶつけます。
原は退き、2回裏の守備から長嶋一茂が登場。4回表には18年ぶりの「四番サード長嶋」がコールされ、神宮球場がちょっぴり沸いた。
7回表に高津臣吾の投げた内角ストレートが大久保の左手首を直撃。
球審はすぐにデッドボールを宣告したが、捕手の古田は「振ったじゃないか!」とスイングをアピール。
判定は変わらずデッドボール。巨人ベンチは「ぶつけておいて、なんだその態度は!」と色めき立った。
試合終了後、野村監督は
「向こうも古田に何度も当ててるやないか。大久保ぐらいでガタガタ言うな!」
と逆ギレしたが、当時の大久保はセリーグのホームラン王を争うほど好調でした。大久保は病院で 全治3か月の骨折 と診断された。
【2】富山の乱
続いて6月8日の「富山アルペンスタジアムの乱」
試合前、巨人は古田への報復死球を予告。※ウィキペディア
実際1回表の第1打席に3球続けて3番古田の懐にストレートを投げ、ついに3球目を背中にぶつけました。2死1塁。
続く4番広沢がツーベース。1塁走者古田は勢いつけて巨人のキャッチャー吉原に体当たり。吉原も肘打ちで古田をブロック。判定アウト。
古田はアウトセーフなどどうでもよかった。吉原を睨みつけると、ネクストバッターボックスにいた5番ハウエルが吉原に殴りかかる。ここで両軍が入り乱れてもみくちゃに。
年に1度の富山の試合の1回表がコレである。ワッショイ、平成プロ野球。
試合はヤクルトの大勝。
試合後にはヤクルトと巨人のファン同士もケンカしてました。ワッショイワッショイ。※スポーツ報知
この他にも9月19日の「堀内コーチ、ズタボロ事件」とか「池山隆寛vsカープ西山事件」とかいろいろあったのが1993年。
【3】五・一一事件
そして翌年、危険球退場の直接のきっかけとなったのが1994年5月11日のヤクルト巨人戦。
かの有名な神宮球場の「五・一一事件」である。ゴーテンイチイチ事件と読む。
2回表、ヤクルトの西村龍次が巨人村田真一の頭部に150kmのストレートをぶち当てた。
村田は一度立ち上がり西村に怒鳴りかかるが、途中で倒れ失神。この時の倒れ方は相当やばかった。
シャレにならないデッドボールにさすがの西村も顔面蒼白。
ここでは乱闘とならず、双方マジで村田を心配しました。メチャメチャ怖かったもん。
その後、当時は危険球退場のルールがないため「警告試合」として再開。西村は続投しました。
3回裏、打席に立った9番西村のお尻に、巨人の木田優夫がデッドボールをぶつけます。明らかに故意でした。
ぶつけられた西村も納得の表情でした。これで許してくれるならありがたいくらいです。
西村龍次の名誉のために言っておきますが、アイツ性格が悪そうに見えますが、私はいいヤツだと思うんですよね。広島出身だし。
この村田への死球と今から説明するグラッデンへのビーンボールが珍プレーで流されまくったため、西村は東尾修や盛田幸妃のようなビーンボーラーのイメージですが、私はそこまでではないと思うんですよね。
西村はこの乱闘をきっかけに成績を急降下させます。
翌年には近鉄へトレード。交換要員は吉井理人でした。
さて五・一一事件。
続投する西村は7回表に巨人の1番グラッデンにビーンボールを投げます。
珍プレー好プレーでこの1球だけを見ると
「それほど起こるボールか?」
と思われるかもしれませんが、その前の年やその前の前の年からの伏線が積み重なってここで爆発したのです。
投手に詰め寄るグラッデン。
捕手は当然投手を守るためにグラッデンの前に立ちはだかります。
するとグラッデンが左右のフックを放ちアッパーカット。
なんとこの時の捕手は古田じゃなくて中西でした。
古田ってキャッチャーなのに毎年130試合以上スタメンする選手でした。
なのにこの試合に限ってベンチ外でした。前田智徳のファールチップで指を骨折していたのです。
グラッデンがぶん殴ったのは第2捕手だった中西親志でした。
中西とグラッデンは暴力行為で退場。
西村龍次は危険球で退場となりました。
【4】目には目を発言
試合終了後、野村監督は
「西村の退場はしゃーないけど、木田の死球も完全に故意だ」
と語り、長嶋茂雄は
「目には目をです」
と発言。私は「これは大問題になる」と思いましたが、ミスターに言ったことなので、うやむやになりました。
当時のコミッショナーの裁定で「頭部死球は一発退場」となる「危険球退場制度」がこの日を境にセリーグに導入されました。※AERA
10日後の5月20日、危険球退場第1号となったのが中日の 郭源治 投手でした。7回表に阪神の6番ディアーの頭にシュートをぶつけて一発退場。
危険球退場は最初セリーグだけで始まり、1994年時点ではパリーグに危険球退場制度はありませんでした。
私はこれは一時的な措置で、落ち着けば危険球退場制度は失効されるだろうと思ってました。
2001年にセとパのルールを統一しようということで、2001年にパリーグもセリーグの危険球退場を導入しました。
そして2005年にセ・パ交流戦がスタート。交流戦は最初から今までずっと頭部死球は一発退場で行われています。
広島カープの危険球退場
カープの危険球第1号は1994年6月22日の 佐々岡真司。
巨人戦でグラッデンの相棒、コトーの頭にスローカーブをコトンとぶつけました。
「これも危険球?コトーのよけ方も悪い」
と佐々岡が文句を言いながら退場。巨人側も同情的でした。※週刊ベースボール
以後、すっぽ抜けた緩い変化球は危険球退場の対象外となりました。
印象深い危険球は1999年4月14日の東京ドーム巨人戦。
右サイドスローの 小林敦司 が巨人の四番 清原和博 にぶつけた頭部死球。
清原が鬼の形相で小林を睨み、小林は顔面蒼白。
乱闘にはなりませんでしたが、小林は危険球で一発退場。
小林は試合後に金本と西山のつてで清原に謝罪したそうです。この死球もシーズンオフに何度も珍プレーで取り上げられていましたね。