長内孝 (おさないたかし)
1957年生まれ。内外野手。左投げ左打ち。
1975年ドラフト3位でカープ入団。桐蔭学園高校。背番号33→9
プロ18年。1020試合、632安打、104本塁打、打率.250。
もくじ
■ライバルが強烈
■敬遠にまつわる話
■プレースタイル
■カープ鳥おさない
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ライバルが強烈
高校時代の長内は神奈川の名門・桐蔭学園の四番打者でした。しかし同学年に東海大相模の原辰徳がいて甲子園出場の夢は叶いませんでした。
プロに入るとカープのファーストに君臨していたのは水谷実雄。外野には浩二、ライトル、ガードナー。
1983年、水谷との交換トレードでやって来た加藤英司が不調に陥り、そのタイミングで26歳の長内がようやく爆発。レギュラーを掴んだかに見えました。
1984年はドラフト2位ルーキーの小早川毅彦が新人王を獲得。長内は再びポジションを失いました。以後、小早川との併用がしばらく続く。
1987年は山本浩二の引退に伴い、新外国人ランスや小早川毅彦と「ポスト浩二」を争うも、小早川が24本塁打93打点を挙げる活躍を見せ、長内との差を広げました。
1988年~91年も代打や外野出場で強打を見せましたが、阿南監督、山本浩二監督は左投手の場面で長内に右打者の代打を送ることが多かった。長内は角三男からホームラン打ったこともあるんですがね。
1991年、同じ左の西田真二が活躍したことや、代打原伸次、3年目の江藤智の台頭により、長内は大洋ホエールズにトレードされました。
蒼々たるライバル達がいなければ長内ももうちょっと活躍できたかもしれません。長内のライバル達が強烈すぎました。
敬遠にまつわる話
並み居るライバルの中でも、長内の最大のライバルは山本浩二だったかもしれません。
以前、井生崇光が前田智徳の代打に出たことがあると書きましたが、長内は山本浩二の前の打席で敬遠されたことがあります。
1984年、山本浩二は歴史的な不調。8月になってもまだ打率.250を切っていました。
横浜スタジアムの大洋戦(8/10~8/12)で3試合の欠場を命じられ、いつだったか忘れましたが浩二は送りバントもさせられました。結果失敗。この時「浩二がバント!」というのが一般紙の一面に載りました。←スポーツ紙じゃありません。社会現象でした。
当時38歳でしたが山本浩二もかなり「鉄人」で有名でして、過去10年間の1300試合で実に1295試合に出場していました。
その浩二が3試合続けてスタメン落ち。上の動画で「ケガはしてなかった」と語っています。積極的休養。
そんなような状態だったため、もはや「ミスター赤ヘル」ではなく「ミスタープロ野球」と呼ばれていた山本浩二を古葉監督は8/7の巨人戦でついに打順6番に降格させました。4番衣笠で5番長内でした。6番浩二。
ここでドラマは起こります。
8回表、2対2同点。1死3塁で西本&山倉バッテリーは5番長内を敬遠します。後楽園の5万人が騒然。6番は山本浩二です。7番木下、8番達川。
長内の記事なのでここでやめときます。笑
とにかく長内は浩二の直前の打席で敬遠されたことのあるバッターなのです。
1990年、山本浩二新監督の1年目。浩二が開幕四番に指名したのは長内でした。
プレースタイル
長内は「大砲」という言葉が似合う長距離砲でした。
どうでもいい話ですが、私は「長内って相撲取りの巨砲みたいだなあ」と子供心に思ってました。「きょほう」ではありません。「おおづつ」と読みます。
「巨砲」というインパクトのある名前と巨体の割にあんまし強くないところが長内に似てました。笑
二人とも顔がボヤーッとしてましたし、力任せでスピード感のないところも似てました。自分の半分くらいのサイズしかない千代の富士にからっきし勝てないところもなんだか長内っぽかったです。
長内の打撃はアッパースイングでしたがスイングスピードはさすがに速かったです。
左右の揺さぶりには弱いんですが落ちる球をすくい上げてライトに打つのが上手かった。左投手のカーブをすくい上げるのも得意でしたので、私は長内に代打・小川達明を出すのに反対でした。片岡光宏とか高沢秀明ならわかりますけども。
後年の長内は「一塁の守備固め」に出てくることも多かったです。
この時代のファーストはメインが小早川でした。小早川も下手じゃないんですが右投げでしたし、たまにポカもありました。小早川に代走を出せば守備は当然長内。代走を出さなくても、1点差なら守備を長内に代えることがよくありました。
長内の一塁守備は上手でした。ハンドリングが柔らかくスローイングも滑らかでした。
カープがリードしていて9回の最後のアウトを内野ゴロで仕留める時、アウトかセーフか微妙なタイミングになると長内は思い切り体を伸ばして捕球します。そしてその後、右回りにクルッと一回転するのがお茶目でカワいかったです。笑
浅井樹ほど守備範囲は広くないですが、長内のハンドリングはカープの歴代一塁手の中でもトップクラスです。岩本貴裕も一塁はかなり上手かったです。
1984年、カープが日本一を決めたショートゴロ。ウィニングボールは長内でした。
1991年、山本浩二監督が初優勝を決めた瞬間、一塁を守っていたのは長内でした。もうちょっとでウィニングボールを掴めるとこでしたが大野豊が三振で決めました。
カープ鳥おさない
大洋で引退すると、1994年に長内は水谷実雄の後を受けカープの打撃コーチに就任。
2005年に退団すると、長内の後任は小早川毅彦でした。
2006年、長内はかの有名な焼き鳥店「野球鳥おさない」を開業します。実は水谷も同じ頃に西宮で焼き鳥屋さんを始めています。そういえば木下富雄も焼き鳥屋。
野球鳥おさないは現在「カープ鳥おさない」と改称されています。
焼き鳥のメニューが現役選手の名前であることも有名ですね。しかも選手が入れ替わるので毎年メニューの名前が変わります。お客さんは混乱しないのでしょうか。笑
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