25新井貴浩の伝説・前編 [広島東洋カープOB]

新井貴浩 (あらい たかひろ)

1977年1月生まれ。内野手。右投げ右打ち。

1998年ドラフト6位でカープ入団。広島工業高校→駒澤大学。背番号25

実働20年。2383試合、2203安打。319本塁打。1303打点。セリーグMVP1回、本塁打王1回、打点王1回

ちなみに山本浩二の通算記録も書いてみます。

実働18年。2284試合、2339安打。536本塁打、1475打点。セリーグMVP2回、本塁打王4回、打点王3回、首位打者1回。

そりゃ浩二には及びませんが、新井が浩二と比較できるレベルの成績に到達するなんて、1998年のカープファンは誰一人とて予想できなかったでしょう。

もくじ

■二岡との因縁

■カープ選手との因縁

■四番の重圧と成長曲線

■FA移籍と選手会長

■カープ復帰とMVP

■そして監督へ・・・

 

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二岡との因縁

1994.7.12(金)

県工 6-2 広陵 広島市民球場

新井貴浩は広島県立広島工業高校(県工)に入学し、二岡智宏率いる私立広陵高校と甲子園を争いました。

高校3年生の夏、県工と広陵は3回戦で激突します。広陵の先発はエース福原忍ではなく控え投手。福原は1回戦も2回戦にも登板していませんでした。

県工の4番新井は1回表に先制タイムリーを放ちます。

追いかける広陵は福原をマウンドに送るも4回表にワイルピッチで1失点。県工3対0とリード。

6回裏に広陵の4番二岡が2点タイムリー。3対2。

福原は体調不良なのか3回1失点で降板。7回からは二岡がマウンドに上がりました。

その二岡も新井にタイムリーを打たれるなど3失点。県工が6対2で大金星を挙げました。ソースは広陵野球部中国新聞です。アスリートマガジンも詳しいです。

県工は4回戦で敗れ、新井はこの試合で本塁打を放ったものの甲子園の夢は叶いませんでした。

新井と二岡は同級生。この事を覚えておいてください。2人の運命は4年後のドラフト会議で再び交錯します。

 

18歳の新井貴浩は駒澤大学に進学。

大学4年間の通算成績が打率.241、2本塁打とよく言われますが、実は新井は大学4年生になってちょっぴり活躍します。

大学3年生までは打率.230、0本塁打。しかし4年春のリーグ戦でチーム打点王になると、夏には里崎智也らと共に大学全日本に選ばれアメリカ選抜と対戦しています。

4年秋に新井は初ホームランを含む2本塁打。さらにはリーグ打点王に輝くなどそこそこ活躍しました。

だからと言ってプロの評価が急上昇したわけでもないのでしょうが、自信を深めた新井貴浩青年は駒大の「太田垣監督→野村謙二郎→大下剛史ヘッドコーチ」という強烈駒大ラインを頼って、ぎりぎりドラフト6位でカープからの指名を受けることに成功。同年8位の広池浩司と6位の新井は事実上「ドラフト外のテスト入団」みたいな感じでした。

 

1998年のドラフトは「二岡智宏ショック」のドラフトでした。

広陵高校時代から7年間二岡を密着マークしてきたカープ。

近大が優勝した1997年頃から二岡獲得に乗り出してきたのが阪神。

1998年秋に近大がタイトル総ナメした途端、突如大金を担いで現れた長嶋巨人。

この年の私は

「カープが1位で二岡を指名すると言ってるのに、なんで後から出てきた巨人が二岡を2位で獲得できるんだ!」

と大騒ぎしてました。

その時、長嶋茂雄監督はこう言いました。

「うーん、いわゆる一つの 裏金 ですよw」

後に朝日新聞はこの時二岡が受け取った裏金の総額は 6億円 だったと報じました。※朝日新聞 

カープは野村謙二郎の後継者として7年間二岡をマークしてきたのですが、裏金で巨人に強奪されたため、1位指名をセンス抜群の高校生ショート東出輝裕に切り替えました。2位でも東筑高校の頭脳派ショート井生崇光を指名しています。ちなみに同年プロ入りした高校生の中には 松坂大輔、新垣渚、藤川球児ら蒼々たるメンバーがいました。

 

しかし東出は左打者、二岡は右打者。

ショートは野村謙二郎にもう少し頑張ってもらうとして、カープには「大学生の右打者がほしい」という事情もありました。

そこで駒大とのご縁もあって新井は「ダメ元で取っとけ」ということになったのかもしれません。

もしも二岡智宏が巨人の裏金になびかずカープの誠意に応えていたら、

新井のプロ入りはなかった のかもしれません。※関連記事

二岡はプロ入り語、アイドル的な人気にあぐらをかいて不倫騒動。その後、北海道に移籍したことはご存じの通りです。

もし二岡がシャキッとしていたら、新井貴浩も坂本勇人もプロの世界で2000本安打できていなかったのかもしれないのです。

 

カープ選手との因縁

新井貴浩の1年目は達川光男新監督の1年目でもありました。

そして8年ぶりに復帰した 大下剛史 ヘッドコーチの1年目でもありました。その他西田真二大野豊正田耕三らもコーチ就任1年目でした。

新井はそこで硬軟織り交ぜた贅沢な指導を一身に浴びました。

大下正田は激しいノックを新井に浴びせ、西田や大野は新井を暖かく見守ったと言います。

 

新井は1年目から代打起用を中心に50試合に出場して7本塁打をかっ飛ばします。

当時の新井は数字で見るほど頼りになる感じではなく、3打席に1回は三振。3球に2球は空振りというイメージの選手でした。

しかもカープの代打陣には史上最強との呼び声高い「町田公二郎浅井樹」のコンビが全盛期でした。町田29歳、浅井27歳。

荒削りの新井貴浩を勝負どころの代打で使う必要は全くありませんでした。

 

新井貴浩と大下剛史の師弟関係は有名ですが、実は新井と大下が一緒にプレーしたのは新井の1年目、1999年だけなのです。意外。

1999年のオフには江藤智がFA宣言。巨人に移籍しました。大下も退団。

2000年の開幕戦ではサードに野村謙二郎、ショートに東出輝裕が入りましたが、野村が故障離脱すると8月から新井がサードを守ることが増えます。ここで新井&東出の「伝説の三遊間コンビ」が誕生します。翌シーズンからレギュラーに定着する2人はエラー数を競い、負けた方が坊主頭になることがお約束でした。

 

「新井と金本知憲との絡み」が注目され始めたのは山本浩二監督に代わった2001年頃。達川時代は新井は1軍2軍を行ったり来たりでしたが、3年目になると新井は一軍定着。私もこの頃から

「新井なんか全く期待してなかったけど、コイツを育てないと金本とロペスの次の四番がいないぞ」

と考えるようになっていました。

3年目の新井は124試合に出場し、打率.284、18本塁打、56打点の活躍。

4年目の2002年はさらに成績アップ。140試合全試合にスタメン出場。打率.287、28本塁打、75打点。26歳で見事な活躍。

オールスターで豪快なホームランを打ち、後半戦では市民球場のお立ち台に金本とコンビで登場する回数も激増しました。 

アウトカウントを間違えて前の走者を追い越したり、まだツーアウトなのにチェンジだと思ってベンチに帰る姿は相変わらずでしたが、新井の急成長はカープファンの誰もが予期していないものでした。

 

四番の重圧と成長曲線

2002年オフ。師匠の金本知憲がFA宣言。阪神に移籍します。

不動の四番を失った山本浩二監督は、キャンプで「新四番・新井貴浩」を明言します。

浩二「重圧はあるだろうが辛抱して育てる」

実際、山本浩二は新井貴浩を そうとうガマン しました。

 

新井は開幕から全く打てず、5月末時点で新井の成績は打率.234、3本塁打。

打順が6番ならそう目くじらを立てられることもなかったのでしょうが、新井は緒方孝市前田智徳に挟まれる四番打者でした。打率.234はシャレにならないのです。チームの勝敗に直結するからです。

6月に入るとネットのカープファンもプロ野球解説者もみなが揃って

「新井を外せ!」

の大合唱でした。みなが「不振の原因は四番の重圧だ」と口を揃えました。

 

だが私と山本浩二だけは

「何があっても最後まで四番新井で行け!」

と思っていました。

私は2003年の新井貴浩が一番印象に残っています。

エラーしても前の走者を追い越しても、いつも前向きに頑張ってた無邪気な新井が、この年はホントに毎日 悲壮感 を漂わせていたのでね。

たまに打ってもガッツポーズできないし、三振すると顔面蒼白でした。

 

6月に入ると星野タイガースがセリーグを抜け出し独走態勢に入りました。

関西のテレビでは「2番赤星、3番金本が効いている!」と何度も取り上げていました。

金本の進塁打はいつも12塁間を抜けるのに、新井の三遊間はいつもゲッツーでした。

結局、7月12日に山本浩二は新井貴浩を6番に降格させました。四番には新外国人のアンディー=シーツ

浩二「このままでは新井の技術もメンタルもズタズタになる」

ひが「うむ。だったら仕方ない。楽なところで打たせてみよう」

 

新井は2004年も低迷。盟友東出もシーツにポジションを奪われ迷走します。

当時「新井と東出のチーム」を目指していた私は3番ラロッカ、4番シーツのチームを全否定していました。

「外国人に二遊間とクリーンアップを任せるようではチームは弱体化する」というのが否定の理由です。

現にシーツもラロッカも年俸が跳ね上がり、2年でカープを去りました。

 

新井はこのまま終わるのかと思いきや、2005年に突如復活。

打順6番で打率.305、43本塁打、94打点。前年の嶋重宣の首位打者獲得にも驚きましたたが、新井の本塁打王はもっと驚きました。山本浩二の球団記録に並んだり迫ったりしたシーズンでした。

ただ新井がホームランを狙って打ったのはこのシーズンだけでした。

翌2006年と2007年はチーム打撃に目覚め、2年連続3割、25本、100打点。

 

そして例の「2007年FA騒動」へと向かうのでした。

つづく…