大野豊(おおのゆたか)
1955年生まれ。投手。左投げ左打ち。
1976年入団テストを経てドラフト外でカープ入団。島根県立出雲商業高校→出雲市信用金庫。背番号60→57→24
沢村賞1回、最優秀防御率2回、最優秀救援投手1回。通算707試合148勝100敗138S、ERA2.90
もくじ
■テスト入団からプロ初登板
■江夏豊との絆
■槙原との対決
■人格者
■100勝100セーブ
テスト入団からプロ初登板
「カープの好きな投手は誰?」とアンケートを採るとたぶん1位に輝くのは大野豊さん。
コントロール良し、球威良し、変化球良し、人間性良し、顔も男前。
有名な話ですが、そんな大野さんはドラフト1位ではなくテスト入団です。ドラフト外。
1974年、地元の県立高校を卒業する時から大野さんは既にプロ注目の左腕でしたが、コントロールが悪いことと体が小さいこと、あとご家庭が貧乏だったことから堅実な仕事を求めて出雲信用組合に入社。
18歳なのに夢より安定を求めるあたり、現役時代の大野さんとイメージが完全に一致しますね。笑
1976年、軟式野球部で細々と野球を楽しんでいた大野さん。
時々硬式野球部と練習試合をしたり、カープの少年野球教室を手伝ったりするうちにメラメラと野球人の本能が頭をもたげます。
大野さんは高校時代の監督を頼ってカープの入団テストをお願いします。
んで合格。1976年のドラフト外でカープ入団。同年のドラ1は崇徳高校の山崎隆造でした。
1976年のカープは3位。長嶋巨人の後塵を拝しました。この年には初優勝の立役者、外木場義郎が右肩を故障します。
当時のカープ投手陣に頼れる左腕は渡辺弘基(背番号24)ただ一人で、大野豊の出番は意外に早く訪れます。
1977年9月4日、ルーキー大野豊の伝説のデビュー戦。
12対2と10点ビハインドの広島市民球場、阪神戦。
8回表に背番号60の大野豊がプロ初登板。
阪神の攻撃は2番島野育夫から。
1人目、島野センター前
2人目、3番掛布はショートフライ。
3人目、4番田淵ヒット
4人目、守備固めの川藤幸三もヒット
5人目、6番佐野仙好がタイムリー。1失点。
6人目、捕手の片岡に満塁弾。これで合計5失点。
実はまだ終わりません。
7人目の中村勝広に四球。
8人目、投手の山本和行にも四球。
やっと古葉監督が出てきて投手交代。大野に変わり山根和夫。これが大野豊、防御率135.00の全貌です。
江夏豊との絆
失意の大野。太田川をトボトボ歩いて帰ったそうです。
1977年オフ、古葉監督は「大野はまだダメだ。もう一枚左が欲しい」と南海ホークスから江夏豊を獲得。金銭トレードでした。
1977年オフにサッチー騒動が起こり野村克也監督が解任。江夏と柏原純一も後を追うように南海に退団を申し出ていました。
大野は1978年のキャンプで江夏と出会う。
カープ移籍当時の江夏は29歳。ウソだろ、その貫禄で。笑
既に通算169勝を挙げていた江夏豊は12年目のシーズンでした。親友衣笠の2個下。なのにタメ口。2020年の堂林は28歳ですよ・・・
大野豊はプロ2年目を迎えた22歳。
この年ドラフト4位で入団した達川光男と同い年でした。
古葉監督(41歳)は新加入の江夏にこう相談したそうです。
「左の大野を見てやってくれないか」
江夏快諾。こうして荒削りな大野豊は江夏豊に弟子入りしました。
その後の江夏-大野の師弟コンビの活躍はご存じの通り。
1978年、チームは3位ながら江夏大野の豊コンビは巨人の王貞治をキリキリ舞いさせ、ピンクレディーの名曲のモデルになりました。←永射保だという説もあります。
1979年は江夏の21球。
1980年は大野の背番号が57番から24番に変わりました。チームは2年連続日本一。
江夏が日本ハムに移籍した1981年。大野はストッパーを引き継ぎました。
槙原との対決
1984年~1990年は先発で投げました。
特に1987年のオールスターで大洋ホエールズの新浦壽夫から魔球を教えてもらい、大野のピッチングは大きく飛躍しました。
マスコミはこの時「大野がスクリューボールを会得した」と報道しましたが、翌年以降大野の魔球は「パームボール」と呼ばれました。
1988年パームボールをマスターした大野はセリーグで大暴れ。
5月18日広島市民球場。伝説の槇原寛己vs大野豊はこの試合から始まりました。
首位広島vs2位巨人。大野豊はパームボールを駆使してここまで7試合で6勝0敗、防御率0.90。
一方若き槇原寛己もフォークボールを武器に7試合で4勝3敗、防御率1.69でした。
この試合、9回を共に完封して延長戦に突入。10回表2死無走者。槙原が10回裏の準備を始めたところで1番打者の勝呂がバックスクリーンにけっこう大きなソロホームラン。
パームだったかな・・・スライダーだったかな・・・とにかくど真ん中に入りました。
長州力vs藤波辰巳に飽きてきた国民は、昭和と平成を跨ぐ大野vs槙原対決に夢中になりました。
■大野vs槙原 1988~89年の対戦成績
1988.5.28○槙原1-0大野● 延長10回勝呂の決勝ホームラン
1988.7.30●槙原2-3×大野○ 槙原サヨナラ暴投
1989.4.16●槙原5-6大野○
1988.9.23●槙原0-3大野○ 大野完封
1989.5.20○槙原3-0大野● 延長12回槙原完封
1989.6.13○槙原1-0大野● 槙原完封
1988年の防御率1.70は神がかっていました。
1989年も1.92なんですが、斎藤雅樹が1.62でタイトル獲得。大野は2位でした。
人格者
大野さんは人格者としても有名です。
衣笠さんや黒田博樹でさえ相手選手に激怒したことがありますが、たぶん大野さんは一度もナシ。少なくとも私は見たことありません。
お兄さんがヤクザにダマされてその借金を大野さんが肩代わりしたこともありました。
1988年のオールスター第1戦では「代走」に出たこともあります。
大野さんは常日頃から「僕はテスト生ですから足は速いですよw」と自慢しておられました。
ちなみに代走大野の後、打順が一巡すると王監督は代打水野雄仁を送りました。もう打者が一人も残っていませんでした。
同年の7月11日、大野は東京ドームの巨人戦で完投勝利。最後の打者、蓑田浩二をパームボールで空振り三振に取るんですが、その前の1球が達川光男を代表する珍プレーでした。
大野のパームボールに蓑田がファールチップして打球はホームベースでワンバウンド。捕手達川があたかも「ファールじゃなくて空振りですよ」とばかりにジャンプしてガッツポーズ。
当たってもないのに一塁へ歩き出す時と同じように、達川は小躍りして大野のもとへ駆け寄ります。正直な大野さん困惑。笑
球審は「たっちゃん、たっちゃん!」と呼び戻す。巨人ベンチにまで笑われましたが、私は達川を応援してました。
1990年、山本浩二監督は新人の佐々岡真司を先発に戻し、大野を抑えに配置転換。
91年には津田恒美と大野でダブルストッパー構想。しかし津田が離脱。
津田の病気で逆に大野さんとチームは燃えました。津田を優勝旅行に連れて行く!
大野さんは優勝決定試合で胴上げ投手。普段は温厚な大野さんですが、この試合で真弓岡田古屋を三者三振に斬った時だけはちょっぴりコワかったです。鬼気迫る感じでした。
100勝100セーブ
その後も大野さんは先発で「最年長開幕投手」とか「最年長の最優秀防御率」とかの最年長記録を打ち立てました。
原辰徳の引退試合にもストレートを投げてあげましたし、新人の高橋由伸にはご自身の引退を決意させられました。
1998年に大野が現役引退を発表すると、伝え聞いた松井秀喜(24歳)が「本当ですか!」と大喜びしました。素直でカワイイぜ。
大野豊は王貞治と松井秀喜と対戦したことがあるとウィキペディアに載ってますけどそれだけじゃありません。王も松井も抑え込んでいます。ただ対戦しただけじゃありません。抑えたのです。大事なので忘れないように。
1997年のオールスター第1戦ではイチローだって抑えてますよ。
メジャーのオファーも断ってカープ残留。
「防御率135点の私をクビにせず、江夏さんに預けてくれた。給料がいくらでも生涯カープ」
現役生活22年。大野さんの通算防御率は脅威の2.90です。
通算100勝100セーブも江夏同様、チームのために身を粉にして働いた証明です。
2013年野球殿堂入り。軟式野球からの殿堂入り。
2020年現在、名球会入りの資格を見直す動きが出ています。大野さんは今後、名球会入りを果たす可能性もありますよ。
■選手名鑑もくじへ