北別府のお葬式で黒田が言った「エースとしてのDNA」という言葉
今日はこの言葉の意味について深掘りします。妄想ですよ。しかもかなり長文です。
黒田博樹が歩いた時代
北別府は2001年から2004年まで4年間、カープの一軍投手コーチを務めましました。
2000年までは達川監督と清川投手コーチでした。
2001年に山本浩二が2度目の監督就任。この時一軍投手コーチとして呼ばれたのが北別府でした。
2001年の開幕投手は佐々岡真司でした。2000年のエースは12勝を挙げたネイサン=ミンチーでしたが年俸が2億円に到達したため放出。ミンチーはロッテでも12勝。最優秀防御率のタイトルまで獲得しました。
2001年の佐々岡は33歳でした。1999年にシュートを覚えて15勝したりノーヒットノーランしたりしていましたが、2000年の佐々岡は成績を少し落としました。
2000年のカープの先発ローテはエース格がミンチー。183回を投げて12勝10敗。2番手が佐々岡で142回10勝6敗。3番手が26歳の黒田博樹。144回9勝6敗。完投7はチーム最多でセリーグ最多でした。
ミンチーと佐々岡の球速は平均で142~143km。黒田の球速は平均150km。
投球術やコントロールでは佐々岡がチームトップでしたが、26歳の黒田博樹には松井秀喜を押し込む球威と無尽蔵のスタミナが備わっていました。
このタイミングで就任した北別府投手コーチ。伸び盛りの黒田にいったいどんな指導をしたのでしょうか?
北別府は1994年に引退後、6年間テレビ解説を務めました。この間、カープの投手コーチは川端順や大野豊が務めていました。
「北別府の復帰はもうないのかな?」と思っていた矢先のカープ復帰。背番号73番は意外に似合っていました。
山本浩二と佐々岡真司は蜜月関係。1991年の優勝監督と沢村賞投手。
だから2001年の開幕投手は33歳の佐々岡真司。黒田博樹は2戦目に先発してサード新井の2失策で敗戦投手になっています。※参考記事
カープ暗黒時代
2001年はドラフト逆指名制度とFA制度が始まって9年目のシーズンでした。
巨人が裏金をばら撒いて上原、由伸、二岡、阿部を獲得したのがこの頃でした。ソースは朝日新聞。
実は黒田博樹もドラフト逆指名入団です。黒田は苑田スカウトを逆指名したようなもの。詳しくはニッポン放送。
巨人は長嶋ミレニアム。打線には江藤、清原、松井、由伸がいました。ラミレスやクルーンはもうちょっと後。
この時代がカープ暗黒時代の始まりでした。15年連続Bクラスが始まった時代。逆指名制度が最大効果を発揮していた時代。
達川政権が2年連続ボロ負けして、後任監督も見つからず山本浩二が渋々第二次政権。
北別府もイヤだったと思いますよ。弱いチームの一軍コーチは。
結局北別府が指導した4年間、チームは4位、5位、5位、5位。
北別府だけが悪いわけではないのですが、この時代の北別府投手コーチの評判はあまりいいものではありませんでした。大野豊にしても投手コーチとしての評判はあまり良くありませんでした。逆指名ドラフトのせいなんだけどね。
北別府コーチ2年目の2002年。カープ球団はユニフォームのデザイン変更に踏み切ります。
暗黒時代を象徴する例のストライプ型のユニフォームです。
2002~2008年の7年間、このユニフォームで戦いました。
この時代に新井が抜け、黒田が抜け、シーボルとアレックスを獲得しました。
前田健太もこのユニフォームを着て2年間プレーしました。
2009年マツダスタジアム開場のタイミングでユニフォーム変更。ストライプが消えて白生地に戻りました。
北別府vs黒田
ここまでは前置きです。
ここからが本題。
2023年6月19日、北別府のお葬式が行われました。
そこで黒田博樹が気になる言葉を発しました。
黒田「エースとしてのDNAを北別府さんからいただいた」スポニチ
カープ暗黒時代の真ん中でエースを張った黒田博樹。
2001年に北別府コーチの元、黒田博樹は初めて2ケタ勝利を挙げます。190回12勝7敗。
「もうこれで完全に開幕投手は黒田だ!」と私は思い込みましたが、2002年も浩二は佐々岡を開幕投手に指名。2001年の佐々岡はリリーフだったんですけどね。
私は2002年の黒田に15勝を期待しましたが、成績は164回10勝10敗とちょっぴりダウン。
先発に専念した佐々岡も153回8勝9敗。
北別府コーチは2002年のシーズン中にチームのエースを黒田に託すことを決めたと思います。
カープは2002年オフに逆指名ドラフトで亜細亜大学の永川勝浩を獲得。8年ぶりに背番号20が復活。
そして2003年の開幕投手は黒田博樹。
2003年のカープに私は非常に期待しました。黒田と新井が金本の穴を埋めて活躍してくれるだろうと思ってました。
2003年の黒田は205回13勝9敗の大活躍。ルーキー永川も25セーブ。新井はちょっとブレーキ。
プロ入り7年目29歳の黒田博樹が名実ともにカープのエースになったのが2003年シーズンだったと思います。
その時の投手コーチがまさに北別府学でありました。文字通り「エースとしてのDNA」を黒田が受け取った瞬間です。
黒田が言ったDNAとは言葉だけではないと思います。
先発完投。風雪に耐えて梅花麗し。チームへの愛情。漢気。
どれも黒田博樹を代表するキャッチフレーズですが、改めて思い返せばこれらは全て北別府学にも通じるキャッチフレーズであります。
私が最初に「黒田がカープのエースになる」と感じたのは2000年の9勝6敗のシーズンでした。
この年の黒田はフォークボールを覚えて、150kmのストレートをフルに活かせるようになりました。
特に東京ドームでは球速が5km上がり、最速156kmをマークしたような記憶があります。
そうです。黒田は巨人に強かった。
松井秀喜には打たれたり抑えたりしましたけど、黒田は巨人に強かった。これも北別府のDNA。
時代が21世紀となり、黒田がエースになる時代を一緒に歩いていたのが北別府でした。
私は黒田がカープのエースになる。15勝すると思ってました。
いずれ野茂みたいにメジャーに行く可能性もあると思ってました。
だが29歳でエースになった投手が通算200勝するとはハッキリ言って1ミリも思ってませんでした。
北別府は20歳からカープのエース。
30代でちょっと衰えたかと思いましたが、1991年に華麗に復活。
この年の北別府はストレートに磨きをかけて、それまでのスライダーシュート頼りのピッチングを改善しました。
北別府は30歳時点で通算151勝。
黒田は30歳時点で通算 63勝です。
この二人だけが現時点でのカープ200勝投手。
「カープのエースは3文字だ」とよく言われますが、私はこの話を否定します。
黒田博樹も前田健太もカープのエースだからです。大野や川口も北別府の調子が悪い時はエースをやってました。
北別府コーチが在籍したのはわずか4年間。
だけどその4年間は黒田博樹がまさにエースの階段を登っていく時代でした。
旧市民球場で東出と新井がエラーしまくってた時代。
2023年の一軍投手コーチは永川勝浩です。ブルペン担当。
そのブルペンを支えているのが3年目の栗林良吏。
永川は「北別府さんの前で20番を付けるのは怖かった」と言い、
栗林は「北別府さんのカープ愛を背負っていきたい」と言いました。日刊スポーツ
200勝投手の黒田博樹がカープ球団の総合アドバイザーで一軍監督が新井貴浩。
みな北別府の教え子です。新井はカープは家族と言いましたが、北別府は新井と黒田のお父さんだったかもしれないです。
エースとしてのDNA
結局「エースとしてのDNA」とは何だったのか?
北別府が黒田に遺したものは言葉だけではないと思います。
親から子に受け継がれる遺伝子を持った細胞がデオキシリボ核酸。通称DNA。
ものすごく大雑把に言うと「染色体=DNA+ヒストン」
DNAに書かれている情報が遺伝子。
親は子に様々なものを継承します。教育、思考、習慣。
言葉や態度だけではなく遺伝によって継承されるものもある。外見だけじゃなく性格や嗜好も遺伝すると私は思う。持病や虫歯も遺伝するらしい。
若き北別府も外木場からエースを奪い、外木場に学んだでしょう。
エースとは何なのか?
黒田が北別府から学んだものは何なのか?
親が子に遺すものは何なのか?
エースとは言葉や意気込みだけはないはずです。
やっぱりカープは家族なんでしょうね。