昨日、慶応大学の子がシカゴ=カブスの入団会見を行いました。
NPBにプロ志望届を出して指名を待ちましたが指名は無し。そこで彼は野球をキッパリやめて大手企業に就職するつもりだったそうです。
野球の海外進出
カブスは彼のもとへ突然スカウトに来たわけじゃありません。ずっと追いかけていてドラフト会議終了後すぐにマイナー契約を提示したそうです。彼は内定先の会社にも相談して、内定辞退とアメリカ挑戦を決意したそうです。ロマンが溢れますね。
ロッテを戦力外となった荻野貴司はチェコリーグ、石川歩はオランダリーグに挑戦するそうです。われらの宇草孔基も「海外挑戦」と語ってましたが、どこへ行くつもりなのでしょうか?
2ヶ月前は薮田和樹もドバイでプレーしたし、これほど野球が海外に広まるなんて一昔前じゃ想像もできませんでした。
これは大谷効果なんかじゃなく、メジャーリーグ(MLB)が野球の海外展開に長い間力を注いできた結果と思われます。
MLBは20年ぐらい前からヨーロッパとアジアで市場開拓をしたいと言ってきました。NPBもMLBに負けじと何かやってもらいたい。ソフトバンク一球団だけでやってもダメだと思いますよ。
一茂の背景
そんなことがあって、ふと思い出したのが今から34年前の 長嶋一茂 の話です。今日は長嶋一茂の話をします。
1992年3月。
プロ5年目のシーズンを迎えていたヤクルトスワローズの長嶋一茂(26)が開幕直前に突然「野球留学に行く」と言い出したことがあります。
一茂は言わずと知れたミスタープロ野球の長男。ドラフト競合の末、ヤクルトに入団しました。
1年目からホームランを放つなど、そこそこ活躍はしました。今で言うと広島カープの佐々木泰みたいな活躍でした。
と言っても一茂はまだルーキーですから試合に出たり出なかったりで、すぐにレギュラー奪取とはなりませんでした。
一軍と二軍を行ったり来たりという感じでもなく、とりあえずベンチに入れとけばお客さんが来るということで、一茂は関根監督の下で客寄せパンダ的な扱いを受けていました。
ヤクルトは一茂の1年目こそ大物メジャーリーガー・ダグ=デシンセイ をサードで起用しましたが、一茂の2年目にはサードの選手を補強しませんでした。
ヤクルトが連れてきた助っ人はワニ肉が好物の ラリー=パリッシュ。彼は一塁手でした。
もう一人の外国人選手は美味しそうな名前の ホアン=アイケルバーガー。彼はクローザー候補でした。当時の外国人選手は1球団2人まで。一茂とポジションはかぶりませんでした。
ヤクルトはサードのポジションを空けて一茂の成長を待ちましたが、2年目も一茂は伸び悩みました。
一茂3年目の1990年。
関根監督が去り、野村克也 新監督がやって来ました。ここで一茂の置かれた環境はガラリと変わります。
ノムさんの目標はもちろん優勝。ノムさんは一茂を特別扱いしませんでした。
ノムさんと一茂
ノムさんがヤクルトにやって来て一番最初にやったことは「ホームラン王パリッシュの解雇」でした。
パリッシュはホームラン王ですが三振王でもありました。球団は契約を延長する方針でしたが、ノムさんが「三振王は要らん」と言ってパリッシュを放出しました。
ノムさんは人気者のブンブン丸、池山隆寛 とも対立しました。
一発を捨てて右方向に打てと言うノムさんと、当時アイドル的人気を誇っていた池山のプライド。今さら俺のスタイルを捨てられるか。野球哲学のぶつかり合いでした。
春のキャンプが始まると、ノムさんは練習後にID野球の勉強会を開きました。
ノムさんは一茂と池山にもID野球を叩きこもうとしましたが、天然キャラの彼らには少し難易度が高かった。一茂はミーティング中に漫画ばかり描いていたそうです。
その結果、3年目の一茂は出場機会を大きく減らしました。池山は右方向へ打つスタイルにモデルチェンジしました。
1991年。レギュラーを掴めないまま4年目を迎えた長嶋一茂。
この年はちょろちょろっと活躍しましたが、ヤクルト時代の一茂はまだサードでのエラーが多く、試合終盤になるとベテランの 角富士夫(35) に代えられたりもしていました。
角はミスの少ない選手で、いかにもノムさんが好きそうな選手でした。
4年目を終えた一茂。さすがにそろそろ危機感が芽生えてきました。
プロ入りから4年経過。期待されて26歳。
当時の一茂を今に例えるなら 根尾昂 や 藤浪晋太郎 みたいな状況でした。二人とも大阪桐蔭なのは偶然です。
ジャック=ハウエル
一茂のプロ4年間は以下の通り
1988年 88試合 .203 4本
1989年 69試合 .250 4本
1990年 35試合 .167 1本
1991年 67試合 .221 4本
ついにノムさんは1991年のオフにサードの外国人選手を補強します。
その選手の名前は ジャック=ハウエル。30歳。
1992年のセリーグMVPと首位打者と本塁打王に輝く選手ですが、入団直後はそこまで期待値の高い選手ではありませんでした。
若さと肩が武器とか、その程度の期待値でした。
デシンセイとパリッシュはバリバリのメジャーリーガーでした。当時のヤクルトにはまだ「ボブ=ホーナー熱」が残っていたのかもしれません。
二人はMLBで1500本以上ヒットを打っていましたが、右バッターでした。当時のヤクルトが巨人の絶対的エース斎藤雅樹を攻略するにはどうしても左バッターが必要でした。
池山・広沢・古田・一茂はいずれも右バッターです。ノムさんは杉浦亨と秦真司を上手く使いながら首位巨人にくっついて行きました。
今年もサードが角と一茂では心許ない。ここに左の外国人が欲しい。そこへやって来たのがハウエルでした。
一茂の閃き
実は当時の一茂はNPBに疲れてもいました。
味方のコーチだけじゃなく、NPBの大物が入れ替わり立ち替わりやって来て一茂の打撃に口を出しては去って行きます。
調子が上がらない時に父親の友人が大勢やって来て、全員が自分に違うことを教えるのです。無下に断れない一茂は混乱したでしょうね。
一茂はそんな時間を4年も過ごしてきました。やっぱりどこか根尾みたいでしょ。
5年目の1992年。春のキャンプからオープン戦にかけて、一茂の打撃はなかなか好調でした。
ライバルのハウエルもスロースターターでまだ大人しい。
このタイミングで一茂が突如
「野球留学したい!」
と言い出しました。誰もが「は?」となりました。
秋冬のウインターリーグに行くと言うなら話はわかるよ。
令和の現在も、多くの若手選手がメキシコやドミニカのウインターリーグに参加しています。
ところが一茂が言い出したのは1992年の3月です。プロ野球がもうすぐ開幕するってタイミング。
一茂は誰に教えてもらったのか
「そうだ、アメリカ行こう」
と思い立ちます。
この話は野茂英雄がMLBに挑戦する3年前の話です。
一茂はNPBを離れ、誰も俺のことを知らない街で野球をやってみることを閃いた。
「アメリカに行けば俺はもう長嶋ジュニアじゃなくなる。そんな環境で静かに野球をやってみたい」
と思ったのか、ただ逃げ出したいだけだったのか、カープファンの私にはよくわかりません。
ただ当時は
「はあ? 一茂はシーズンを棒に振る気か?」
と思った記憶があります。なんだかんだで一茂が少しずつ成長してる兆しもあったからね。
ドジャーズの一茂
そして一茂は1992年4月1日に海を渡る。
ドジャースとマイナー契約。一茂は1Aで1シーズンプレーしたらしい。
長嶋の息子はNPBの重圧から逃げ出したかった。誰も知らない海の向こうで一人静かに野球をしたかった。
当時の一茂の思いは、今の若者が憧れるメジャーリーグへの思いとは趣が少々異なっていました。
私は一茂のアメリカでの成績を知らない。どうせ大した活躍もしていないだろう。
1992年9月。一茂のマイナー契約が切れて日本に戻ると、野村監督は甲子園で胴上げされていました。
史上最高の日本シリーズは1992年と1993年のヤクルト対西武だと言われますが、私も全く同意見です。ノムさん対森祇晶。名将対決でした。
2025年のワールドシリーズで長嶋一茂がゲスト解説に呼ばれたそうです。私は見てないのですが、この時に一茂が
「僕も大谷君と同じドジャースのユニフォームを着てたんですよ!」
と自慢してたらしい。※スポニチ
帰国した一茂はオフに巨人へトレードされます。一茂は27歳でした。
確かに巨人へ行った一茂は守備がめちゃくちゃ上手くなってました。カープが槇原に完全試合された試合で、実は一茂は8番サードでスタメン出場していました。んでファインプレーをいくつも見せて、一茂は密かに槙原の完全試合をアシストしていました。
バッティングの方は親父に相談しようと思っていたのかもしれませんが、長嶋茂雄は新人の松井秀喜につきっきりでした。
一茂は1996年限りで現役を引退。通算本塁打数18本はたいへん立派な数字です。
一茂はドジャースにもいた。崖の上のポニョにも出演しました。
カッコいい人生です。一茂は来週60歳になるそうだ。