2019年10月4日、東出世代の松坂大輔(39歳)が中日退団を発表しました。
来季の所属先は西武ライオンズなのか、はたまたDeNAベイスターズなのか。
今日は松坂大輔に関するちょっとした妄想をお送りします。
ここから下は管理人の妄想です。100%ウソ記事なので真に受けないようにお願いします。
松坂の右肩は壊れていた
1998年夏、京都成章をノーヒットノーランで破った横浜高校。春夏連覇。
しかしこの時、松坂大輔は右肩を故障していた。
AAAアジア選手権を辞退した松坂。新垣、杉内、村田修一が粘りの投球を見せたが高校全日本は韓国・台湾に敗れて3位。東出のスクイズも空振りに終わる。
横浜高校は秋の国体に2年生の控え投手で挑むものの、決勝戦で京都成章に雪辱を果たされ、横浜高校の連勝記録は43で止まった。松坂の出場はなかった。
松坂の故障はマスコミで大々的に報道され、投手を続けるのか打者転向かが野球ファンの間で大いに議論された。
松坂本人は投手への強いこだわりを見せ、投手としてのプロ入りを表明した。
しかしプロのスカウトも黙っていない。
現在の松坂の状態を確認しないことにはドラフト指名に踏み切れない。
夏の甲子園以後、松坂は一度もブルペンに立たなかった。キャッチボールをすることはあってもチームメイトさえピッチングを見ることはなかった。
松坂は3ヶ月間投球練習をしないまま11月のドラフト指名を迎える戦略を取ったのだ。
大学界の動き
何球団の競合になるかが話題だった松坂。
それが一転、松坂のプロ入り自体が危ぶまれることに。
8月に松坂が右肩痛を理由に日本代表入りの辞退を発表すると、すかさず大学球界も色めき立った。
特に松坂の女房役・小山良男の入学が内定していた亜細亜大学が松坂のスカウト活動に熱心だった。
ドラフト当日
1998年11月20日。
運命のドラフト会議が始まった。
まず日本ハムが松坂大輔を外野手として指名。
次に横浜ベイスターズが松坂を投手として指名。
西武ライオンズ。
「第1回選択希望選手・・・西武、
新垣渚、18歳、投手、沖縄水産高校」
松坂は2球団の競合。
新垣はオリックス、ダイエー、西武の3球団が競合。
運命のくじ引き。
まずは松坂から。ハムの上田監督とベイの権藤監督。
交渉権獲得は横浜!
ここでテレビ中継は横浜高校に切り替わる。ニコニコする松坂少年。
アナウンサー
松坂選手、意中のベイスターズから1位指名を受けました。
プロ野球には投手として挑戦しますか、打者として挑戦しますか?
松坂
まずはピッチャーで勝負したいです。
アナウンサー
現状で松坂さんの肩の状態は何パーセントくらいの状態だとお考えでしょうか?
松坂
(苦笑いで)ピッチングをしていないので今はゼロパーセントです。
これから球団の方と相談してどう進んでいくか相談したいです。
続いて3球団競合の新垣渚。
なんと交渉権は西武が獲得。
仰木監督と王監督の隣で「ツモったよ」と笑う東尾監督でした。
「横浜松坂」誕生!背番号20
松坂に与えられた背番号は20番。球団は松坂を投手として育てる方針。
しかし手術をした松坂の右肩の具合は思わしくなく二軍の登板すらままならなかった。
チームも前年の日本一から3位に後退し、シーズンオフには佐々木主浩がFAで海を渡った。
そしてついに松坂大輔は打者転向を決意する。
松坂
難しい決断でした。でもプロ野球選手として前に進むために決断は早いほうがいい。
ボクはもうピッチャーに未練はありません。やり残したことはない。
これからはバッターとしてプロの世界で勝負したい。いずれはメジャーリーグに挑戦できるようなバッターになりたい。
2年目の松坂は外野手
2001年、松坂は外野手登録となる。背番号は3番に変更。20番はルーキー木塚(明治大)へ。
2年目の松坂は二軍で打ちまくった。打率.364。本塁打15。
しかし一軍の外野陣は波留敏夫と鈴木尚典が全盛期。ライトには佐伯貴弘、中根仁。ファースト駒田。
高校時代のライバルで1歳下のルーキー田中一徳(PL学園)は早くも一軍デビュー。代走と守備要員で英才教育を受けていた。
松坂大輔の一軍昇格はなかった。
3年目に一軍デビュー
2001年、ベイスターズは森祗晶新監督を迎え開幕。
3年目20歳の松坂は7番ライトで開幕スタメン。駒田が引退しファーストには佐伯が回った。
松坂は開幕戦でヤクルト石井一久から初打席初安打をマーク。
その後も右に左に長打を放ちオールスター初出場。ロッテ黒木知宏からホームランを放つ。
結局この年の最終成績は打率.279、22本塁打、71打点。シーズン終盤には四番を打つこともあった。
新人王の資格も残っていたが、惜しくも盗塁王の赤星憲広に敗れた。
暗黒時代の希望の星
2002年、2003年と順調に成績を伸ばして松坂大輔はセリーグを代表する四番打者へと成長する。
ベイスターズの外野は田中一、多村、松坂。
内野は村田修一、石井琢朗、内川聖一、タイロン=ウッズ。
控えに吉村、小池、金城、種田ら。
打線は強力だったがチームは弱かった。松坂は暗黒時代の横浜のまさに「希望の星」だった。
松坂は2003年に45本塁打を放ち本塁打王を獲得。打点王はヤクルトのラミレス。
2004年には同い年のライバル藤川球児から3打席連続ホームラン。これで藤川球児はリリーフ転向を決意。西武の新垣渚は沢村賞を獲得。
オフにアナウンサーの柴田倫世さんと結婚。24歳だった。
2005年に2度目の本塁打王を獲得。2位は新井貴浩の43本。打率は2位。打点も3位だった。沢村賞はソフトバンクの杉内俊哉。
2006年は第1回ワールドベースボールクラシックに日本代表として出場。全日本の四番打者としてチームを優勝に導く。全日本のエースは斉藤和巳と杉内俊哉の二枚看板だった。
この年はWBCの影響で成績を落とす日本人選手が多い中、松坂は打率.340、52本塁打、138打点の活躍で二冠王に輝く。特に防御率1位の黒田博樹に対し滅法強かった。
このオフ、松坂はポスティング移籍によって海を渡った。26歳だった。
メジャーリーグで活躍しNPB復帰
松坂はボストン=レッドソックスに入団。中心選手として長く活躍した。
2007年は岡島秀樹、2013年は上原浩治、田澤純一とともに2度ワールドチャンピオンに輝いた。
2007~2016年の10年間で打点王1回、シルバースラッガー賞2回を獲得。
2016年のオフにフリーエージェントとなりNPB復帰。ソフトバンクホークスに入団。4億円×3年契約。
36歳だった松坂はヒザに爆弾を抱えており、レフトと指名打者での出場がメインとなる。
2016年は大谷翔平vs松坂大輔の対決でパリーグを大いに盛り上げる。中日に移籍した田中一徳が通算2000本安打達成。
2018年は横浜時代のチームメイト内川聖一とともに若いチームをバックアップして日本一に貢献。
2019年は100試合(先発60)に出場し223打数59安打11本塁打。打率.265。バイプレーヤーとして2年連続の日本一を達成したが、ソフトバンクからの契約更新を断り自由契約を選択。
松坂は40歳となる2020年も現役続行を希望している。
プロ生活21年。日米通算2421安打。残り4本で通算500本塁打を達成する。所属先はまだ決まってない。
おしまい。妄想100%のウソ記事です。