岡本真夜のTOMORROW

今日は久しぶりに愛すべきものすべてに歌を歌います。

今日の曲は岡本真夜さんの「TOMORROW」です。

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プロ30年目

1995年4月1日。

私はプロ1年目の入社式を迎えていました。1年留学したので私は23歳でした。

入社して最初の2ヶ月間は東京で研修を受けていました。

1995年はたいへんなイヤーで1月17日が阪神淡路大震災。3月20日には地下鉄サリン事件。

世間がサティアンとか上祐とか騒いでいた時、私も東京にいたのです。お茶の水です。

 

JR中央線は噂以上の混雑で、難波梅田を繋ぐ大阪御堂筋線より混んでいました。

「マジか東京。オレは毎日こんなのに揺られて30年も働かなきゃいけないのか?」

私は大阪人でしたが、配属先の第一志望は東京支店でした。2位が大阪。

死にたいくらいにってほどではありませんが、私も東京に憧れていました。だって23歳なんだもん。

 

5月23日に神宮球場で前田智徳がアキレス腱断裂。

私はお茶の水でこう思いました。

「前田ならきっと帰ってくる」

同じ日に私も配属先を言い渡されました。 

配属先は 札幌支店 でした。実話です。

 

北の国へ

その瞬間、頭にさだまさしが流れました。

ラー、ラー、ラララララーラー、ハアァアァァ

北の国からです。察してください。

 

1995年の札幌にはまだ日本ハムのハの字もありません。コンサドーレ札幌すらありません。

当時の北海道と言えばヒグマ打線の駒大岩見沢高校、函館有斗高校、サッカーの室蘭大谷。あと札幌円山球場。

プロ野球は年に2~3試合で高校野球は白河の関を超えない時代。田中将大まだ6歳。

 

私一人で飛行機に乗り、千歳空港に降り立つ時、千歳空港は雨でした。

低い雲で滑走路はまだ見えない。

着陸寸前、ようやく見えた新千歳。

30年前の千歳空港は広大な針葉樹林の中にポツンと一軒立っていました。

地平線まで続く針葉樹林を見て、私の頭には「ツンドラ」という言葉が思い浮かびました。「開拓」も浮かびました。

 

札幌の夜

千歳空港から札幌駅までは電車で移動しました。

だから私は札幌駅で初めて北海道の空気を吸いました。

吐いた息は うっすら白かった です。これも実話です。

雨が降る6月の札幌は息が白いんです。私の頭にまた「冷帯」の文字がよぎりました。甲子園で勝てないわけだよ。

 

札幌のビジネスホテルにチェックインしてカバンを下ろすと

「いよいよ明日からプロ生活か。やってやるぜ!」

という気持ちと、

「イヤこれ友達できるんかなあ…」

という気持ち両方でした。

 

岡本真夜

仕事は楽しかったし、会社の人ともすぐに仲良くなれました。

だけど好きな女の子は本州に残してきました。

彼女に電話もするし、手紙も書きました。携帯電話はあるけどメールはない。そんな時代でした。

 

手紙は何度も繰り返し読めるので、電話より手紙を書こうと思ってました。

でも手紙では彼女の声が聞こえない。

手書きの文字の柔らかさはとても嬉しいんですが、直接会って目を見ることはもうできない・・・

札幌がさわやかな晴れの日に、本州のプロ野球が6試合全部雨天中止だったことも珍しくありませんでした。北海道には梅雨がなく、ナゴヤドームもまだなかったからです。

 

思えば遠くに来たもんだ。

そんな時、テレビから聞こえてきたのが岡本真夜のTOMORROW。

私の中では大ヒット曲でした。

 

涙の数だけ

私の好きな武田鉄矢も

「悲しみの数と他人へのやさしさは比例する」

と言ってました。

 

岡本真夜も涙の数と強さが比例します。

1番の歌詞もいいが、2番はもっといいです。

「時には荷物を放り投げろ」

大人になって聞くと2番がジワジワ名曲です。

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20代の中村奨成や大盛穂に聞かせたい。

泣いてもいいぜ。カッコ悪くなんかないんだぜ。

30年前、私は札幌で一人寂しくTOMORROWを聞いていました。

来年あれから30年。カープ最後の日本一は41年です。